磐城平藩

日本の江戸時代に、陸奥国に所在した藩

磐城平藩(いわきたいらはん)は、江戸時代に旧陸奥国菊多郡から楢葉郡まで(現在の福島県浜通り南部)を治めたである。藩庁は磐城平城いわき市)。

維新後に設置された仮藩庁

歴史 編集

前史 編集

浜通り南部は、平安時代末期から岩城氏が支配していたが、関ヶ原の戦いで西軍に就いた為に領地を没収された。岩城氏は、後に信濃中村藩川中島藩)を経て出羽亀田(現在の秋田県由利本荘市郊外)に移転した。

磐城平藩は、鳥居、内藤、井上、安藤の各氏が治めたが、いずれも徳川将軍家の側近であった。又、磐城平藩は、幕末に公武合体を進めた老中安藤信正の所領として知られている。

鳥居時代 編集

岩城氏が去った後に浜通り南部を治めた者は鳥居忠政である。忠政が飯野平に入ると、岩城の「いわ」の字を変更して「磐城平」に都市名を変更し、陸奥国南東部4郡のうち10万石が与えられた。忠政が「いわ」の字を変更したのは、関ヶ原で岩城氏が徳川氏に敵対したため、「岩城」の字を忌避してのことである。

岩城氏の居城は大館城(飯野平城)であったが、その東に新たに磐城平城を築き、それに伴い城下町の再編を行った。今日の八幡小路付近にあった紺屋町等を移して家臣の屋敷にし、高台に数多くあった寺社を移し、そこを城郭にした。磐城平城を建設する際に、治水のため丹後という翁を人柱とした話があり、今日でも「丹後沢」の名前で残っている。

鳥居氏は元和8年(1622年)、出羽国山形に加増転封となった。

内藤時代 編集

鳥居氏が山形に転封後、磐城平に入った藩主が上総佐貫内藤政長である。嫡子忠長(忠興)に2万石、政長の女婿・土方雄重に1万石が与えられ、磐城平藩は7万石となった。

政長が没し、その跡を継いだ者が内藤忠興である。継いだ翌年から約10年にわたって領内の総検地を行い、これによって2万石の増収をもたらした。寛永15年(1638年)の寅の年に集中して行われたので、「寛永寅の縄」といわれる。慶安2年(1649年)には、磐城平藩にとって最初の成文法である「家中法度」「諸代官郷中取扱之定」「郷中御壁書」を制定した。また、新田開発も盛んで、用水路の普請を行った。その代表的なものが小川江愛谷江である。小川江は、郡奉行澤村勘兵衛勝為により開削され、小川から四倉まで30km、31ヶ村におよぶ。愛谷江は愛谷村から沼之内村まで23ヶ村を潤した。

忠興が隠居して藩主に就任した者が内藤義概である。若い頃から和歌・俳諧に傾倒していたため、藩政を小姓の松賀族之助に委譲してしまった。このことが、後の磐城平藩小姓騒動のもとになってくる。

義概のあと、義孝義稠政樹の代まで天災や普請のため財政が圧迫していた。そんな中、元文3年(1738年)9月に百姓一揆が起こった(元文百姓一揆)。それが理由で処罰的な意味もあり、延享4年(1747年)、内藤氏は日向延岡に転封となった。

井上時代 編集

内藤氏の後に来たのが井上正経である。磐城平藩を支配したのは延享4年(1747年)から宝暦8年(1758年)の約10年間のみで、史料は少ない。

安藤時代 編集

井上氏の後には美濃加納藩主・安藤信成が入封した。入封後、藩校施政堂を八幡小路に創設して藩士の子弟を教育した。漢学を主とし、撃剣を従とした。四書五経国語・小学・通鑑・習字を中心に教え、後に、兵法・洋学も取り入れた。春秋2回の試験で成績優秀者には褒賞を与えた。明治4年(1871年)に廃止されるまで、磐城平藩の最高学府的な存在であった。

歴代藩主の中で最も有名な人物は、第5代藩主・安藤信正である。信正は桜田門外の変の後、老中として幕政を主導したが、文久2年(1862年)の坂下門外の変で失脚、強制隠居処分に処され、所領も4万石に削減された。

1868年戊辰戦争では信正は佐幕派としての地位を貫き、磐城平藩は奥羽越列藩同盟に加入して明治政府軍と敵対した。しかし藩庁である磐城平城での攻防戦で敗北し、磐城平城は焼失して藩士は敗走した。

歴代藩主 編集

鳥居家 編集

譜代 12万石

  1. 忠政

内藤家 編集

譜代 7万石

  1. 政長
  2. 忠興
  3. 義概
  4. 義孝
  5. 義稠
  6. 政樹

井上家 編集

譜代 3万7千石

  1. 正経

安藤家 編集

譜代 6万7千石→4万石

  1. 信成
  2. 信馨
  3. 信義
  4. 信由
  5. 信正
  6. 信民
  7. 信勇

幕末の領地 編集

明治維新後に磐前郡5村(旧幕府領4村、旧棚倉藩領1村)、磐城郡1村(旧幕府領)が加わった。

関連項目 編集

外部リンク 編集

先代
陸奥国
行政区の変遷
1602年 - 1871年 (磐城平藩→磐城平県)
次代
磐前県