秋月種茂

日本の江戸時代中期~後期の大名。日向高鍋藩6代藩主秋月種美長男で、高鍋藩7代藩主(秋月氏23代当主)。従五位下山城守・佐渡守。高鍋藩の全盛期を築いた名君で知られる

秋月 種茂(あきづき たねしげ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名日向国高鍋藩7代藩主。剃髪後の号は鶴山。名君と呼ばれた米沢藩上杉鷹山の兄に当たるが、種茂もまた高鍋藩の全盛期を築いた名君とされている。

 
秋月 種茂
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛保3年11月30日1744年1月14日
死没 文政2年11月6日1819年12月22日
改名 黒帽子(幼名)、種穎、鶴山(法号)
別名 兵部、右京亮(通称)
戒名 清観院殿前佐州大守真乗宗円大居士
墓所 東京都港区南麻布の光林寺
官位 従五位下山城守佐渡守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治家斉
日向高鍋藩
氏族 秋月氏
父母 父:秋月種美、母:春姫(黒田長貞の娘)
兄弟 キセ、縫殿、種茂、フミ、イク、トミ、
ナカ、上杉治憲相良晃長、セイ、
大久保忠快、亀三郎、政次郎、エツ、
トマ、種懐、トヨ、中条信義、フチ、
斉藤利国
正室:盈子松平明矩の娘)
種徳、ケイ(山田重礼室)、黒田長舒、チセ(中村道義室)、岩次郎(早世)、常三郎(早世)、種備、松五郎(早世)
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生涯 編集

寛保3年(1744年)、6代藩主・秋月種美の長男として誕生した。宝暦6年(1756年)11月15日、9代将軍徳川家重御目見する。宝暦7年12月18日(西暦で1758年)、従五位下・山城守に叙任する。宝暦10年(1760年)7月8日、種美の隠居により家督を継ぐ。宝暦11年(1761年)4月18日、初めてお国入りする許可を得る。

藩主になると藩政改革に臨んだ。改革に必要なものは人材登用であると考え、安永7年(1778年)に藩校明倫堂を創設し「教育の高鍋藩」の基礎を築いた。このとき、種茂は藩校に通える者を武士だけに限らず、民百姓に対しても開いた。この明倫堂からは、明治時代に活躍する多くの人材(三好退蔵秋月左都夫石井十次)が出ている。また、大坂から優秀な産婆を呼び寄せ、安全な出産方法を藩内に普及させるとともに、日本で初めて子供手当を支給する[1]など、現代でいう児童福祉にも心を配り、財政再建政策も行った。

名君として名をはせた弟の上杉鷹山は、「兄は僻遠の藩主ゆえ名を知られていないが、もし兄が(私に替わって)米沢の藩主になっていたなら、米沢は今よりもずっと繁栄していただろう」と種茂の政治手腕を高く評価している。天明8年(1788年)11月6日、家督を長男の種徳に譲って隠居したが、なおも藩政の実権は握り続けた。

文政2年(1819年)11月6日、死去。享年77。

系譜 編集

父母

正室

子女

脚注 編集

  1. ^ 後に上杉鷹山もこれと同じ制度を米沢藩に導入している。
  2. ^ 黒田長堅の養子。
  3. ^ 秋月種穀の養子。