紀元前251年(きげんぜん251ねん)は、ローマ暦の年である。

世紀 前4世紀 - 前3世紀 - 前2世紀
十年紀 前270年代 前260年代
前250年代
前240年代 前230年代
前254年 前253年 前252年
紀元前251年
前250年 前249年 前248年

当時は、「ルキウス・カエキリウス・メテッルスガイウス・フリウス・パキルス共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元503年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前251年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法 編集

できごと 編集

ギリシア 編集

  • マケドニアアンティゴノス2世の許可を受けたニコクレスは、シキュオン僭主パセアスを暗殺した。ニコクレスは、僭主として4か月間シキュオンを治めたが、その間に80人の市民を追放した。その後、アラトスに率いられたシキュオンからの追放者によって、夜間にシキュオンの要塞が奇襲を受けた。僭主の宮殿には火がつけられたが、ニコクレスは地下通路を使って街から逃げ出した。
  • アラトスは、ニコクレスによって追放された市民をシキュオンに呼び戻した。これにより、街は2つに分かれた。アンティゴノス2世は、この不和をついて町を攻めた。アラトスは、町をアカイア同盟に加盟させ、マケドニアから同盟を守るための財政的な支援をエジプト王のプトレマイオス2世から取り付けた。

共和政ローマ 編集

中国 編集

  • 昭襄王が死去し、孝文王が立った。
  • 燕王喜長平の戦いによってが弱体化しているとの栗腹の報告を受けて、趙を攻撃することに決めた。燕軍が宋子まで進軍すると、趙は廉頗を将として迎撃し、栗腹を鄗で破った。趙の楽乗は卿秦を代で破り、北に500里あまりも追撃して、燕を包囲した。燕王が将渠を使者として講和を求めさせると、趙軍は包囲を解いて撤退した。

誕生 編集

死去 編集

脚注 編集

注釈

出典

関連項目 編集