紀州征伐

日本の安土桃山時代に起きた戦い

紀州征伐(きしゅうせいばつ)または紀州攻めとは、戦国時代安土桃山時代)における織田信長羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことである。一般的には天正5年(1577年)の信長による雑賀攻め、同13年(1585年)の秀吉による紀伊攻略を指すが、ここでは天正9年(1581年)から同10年(1582年)にわたる信長の高野攻めも取り上げる。

信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまらなかった。紀伊は寺社勢力惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地だったからである。根来雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのである。

中世を体現する国、紀伊 編集

ルイス・フロイスによると16世紀後半の紀伊は仏教への信仰が強く、4つか5つの宗教がそれぞれ「大いなる共和国的存在」であり、いかなる戦争によっても滅ぼされることはなかった。それらのいわば宗教共和国について、フロイスは高野山粉河寺根来寺雑賀衆[1] の名を挙げている。フロイスは言及していないが、5つめの共和国は熊野三山と思われる[2]。共和国と表現されたように、これら寺社勢力や惣国一揆[3] は高い経済力[4] と軍事力を擁して地域自治を行い、室町時代中期の時点でも守護畠山氏の紀伊支配は寺社勢力の協力なしには成り立たない状況だった[5]

紀伊における武家勢力としては、守護畠山氏をはじめ、湯河・山本・愛洲氏などの国人衆が挙げられる。室町時代、これらの国人衆は畠山氏の被官化したもの(隅田・安宅・小山氏など)[6]、幕府直属の奉公衆として畠山氏から独立していたもの(湯河・玉置・山本氏)に分かれていた。

室町時代を通じ、畠山氏は前述の通り寺院勢力との妥協を余儀なくされながらも、紀伊の領国化(守護領国制)を進めていた。奉公衆の湯河氏らも応仁の乱前後から畠山氏の内乱に参戦することが増え、畠山氏の軍事動員に応じ、守護権力を支える立場へと変化していった(教興寺の戦いなど)。一方で15世紀後半以降、畠山氏の分裂と抗争が長期間続いたことが大きく響き、また複数の強力な寺院勢力の存在もあって、武家勢力の中から紀伊一国を支配する戦国大名が成長することはなかった。国人衆は畠山氏の守護としての動員権を認めながらも、所領経営においては自立した存在だった。

治外法権の地、境内都市 編集

中世において、寺領は朝廷も幕府も無断で立ち入ることができない聖域だった。寺院内部への政治権力による警察権は認められず(検断不入、不入の権または守護不入を参照)、たとえ謀反人の捜査といえども例外ではなかった[7][8]。もちろん軍事力による介入など許されない。また、寺領内では政府の徴税権も及ばなかった(諸役不入)。このような、いわば世間に対する別天地である寺院の境内は、苦境にある人々の避難所(アジール)としての性格を持つようになる。一度寺に駆け込めば、外での事情は一切問われない。犯罪者ですら例外ではなかった。境内は貧富貴賎さまざまな人々が流入し、当時の寺社の文化的先進性[9] と結びついて都市的な発展を遂げる。多くの有力寺社は京都など政治の中枢から遠くない場所にありながら、政治的中立、軍事的不可侵に守られて商工業や金融の拠点として強い経済力を持つようになった。これを「境内都市」(自治都市宗教都市も参照)という。高野山や根来寺は、典型的な境内都市である[10]

「惣分」と「惣国」 編集

当時の僧侶は大別すると二種類に分けられ、仏法を学び修行する学侶と寺の実務を執り行う行人があった。時代が下るにつれて各寺とも行人の力が増大し、戦国時代の時点では寺院の武力はほとんど行人の占める所となり、寺院の動向も行人らの意思に左右されるようになる。紀北の地侍たちは高野山や根来寺に坊院を建立し、子弟を出家させてその坊院の門主に送り込む行為を盛んに行った。根来寺の主だった行人は、泉識坊が土橋氏[11]杉之坊津田氏、また成真院が泉南の地侍中氏など、紀伊のみならず和泉河内大和の地侍で構成されていた。これら地侍出身の行人[12] たちが「惣分」という会議を構成し、根来寺の方針を決定していた[13]。つまり、実態としては根来寺の看板を借りた地侍の連合による統治だった[14]。地侍らは境内都市根来の富力を背景に和泉南部へと勢力圏を拡大していった[15]

雑賀では、『昔阿波物語』に「主護(守護)はなく、百姓[16] 持に仕りたる国にて候」と記されるほどに守護の影響力は薄かった[17]。地侍たちは一揆の結束を武器に、守護の支配を排して自治を行った。これを「惣国」と呼ぶ。雑賀惣国の範囲は海部郡から名草那賀郡の一部にまで及んだ。

信長の紀州攻め 編集

雑賀攻め 編集

元亀元年(1570年)に始まった石山合戦本願寺優勢のうちに進み、織田信長は石山本願寺を攻めあぐねていた。信長は戦局を打開すべく、本願寺の主力となっていた雑賀衆の本拠である紀伊雑賀(現和歌山市を中心とする紀ノ川河口域)に狙いをつける。兵員・物資の補給拠点である雑賀を攻略すれば、大坂の本願寺勢の根を枯らすことができると考えたのである[18]

天正4年(1576年)5月頃から織田方の切り崩し工作が始まり、翌5年(1577年)2月までに雑賀五組のうち社家郷(宮郷)・中郷・南郷のいわゆる雑賀三組を寝返らせることに成功する。元々雑賀荘には浄土宗西山派の本山である総持寺があり、雑賀衆の中には真宗門徒もいれば、それ以外の宗派を信じる非門徒も多くいた。石山戦争の過程で雑賀衆の中でも本願寺を支援したい真宗門徒と信長に対して反感を持つ一部の非門徒が連携して一向一揆を編成していくのに対し、この動きに反発する非門徒もおり、彼らは雑賀三組を中心に信長と協力して反一向一揆の動きを強めていったとみられる[19]

開戦から「降伏」まで 編集

信長の第一回雑賀攻め
 
雑賀付近での雑賀衆と織田信長軍の攻防戦/紀伊国名所図会
戦争安土桃山時代
年月日:天正5年(1577年)2月 - 3月
場所紀伊国雑賀荘周辺
結果:和睦による織田軍の撤退
交戦勢力
織田軍  雑賀衆
指導者・指揮官
織田信忠堀秀政羽柴秀吉など 鈴木孫一土橋若大夫など
戦力
100,000-150,000[20] 2,000以上
損害
700 1500
織田信長の戦い

同年2月2日、以前から織田方に加勢していた根来衆に加えて雑賀三組(三緘)の協力も得られることになった[21] ため、信長は雑賀の残り二組、雑賀荘・十ヶ郷を攻略すべく大動員をかけた。信長は9日に安土を発して上洛。膝下の近江の兵に加えて嫡男織田信忠率いる尾張美濃の軍勢、北畠信雄神戸信孝織田信包配下の伊勢の軍勢、さらに畿内越前若狭丹後丹波播磨の兵も合流して13日に京都を出発した。16日には和泉に入り、翌17日に雑賀衆の前衛拠点がある貝塚を攻撃したが、守備兵は前夜のうちに海路紀伊へ退却していたので空振りに終わった。同日根来衆と合流して18日に佐野、22日には志立(信達・現泉南市)に本陣を移した。

織田勢は山手と浜手の二手にそれぞれ30,000人の兵を投入して侵攻を開始した。その陣容は、山手に根来衆と雑賀三組を先導役として佐久間信盛・羽柴秀吉・堀秀政荒木村重別所長治同重宗、浜手は滝川一益明智光秀長岡藤孝丹羽長秀筒井順慶・大和衆に加えて織田信忠・北畠信雄・神戸信孝・織田信包である[22]

浜手の織田勢は淡輪(現岬町)から三手に分かれて孝子峠を越え、雑賀側の防衛線を突破して南下し、中野城を包囲した。2月28日に信長は淡輪に本陣を進め、同日中野城は織田方の誘降工作に応じて開城した。3月1日、織田勢は平井の鈴木孫一の居館(現和歌山市)を攻撃した。

山手の織田勢は信達から風吹峠を越えて根来に進み、紀ノ川を渡って東側から雑賀に迫った。これに対し雑賀衆は雑賀城を本城となし、雑賀川(和歌川)沿いに弥勒寺山城を中心として北に東禅寺山城・上下砦・宇須山砦・中津城、南に甲崎砦・玉津島砦・布引浜の砦を築き、川岸には柵を設けて防衛線を構築した。

日時は特定できないが2月24日以降[23]、山手先鋒の堀秀政勢が雑賀川の渡河を試みた。『紀伊国名所図会・巻之二・雑賀合戦』によれば、雑賀勢はあらかじめ雑賀川の底に逆茂木・桶・壺・槍先を沈めておいて渡河の妨害を図った。織田方が川を渡ろうとすると人馬が足を取られて前進できず、また川を越えた者も湿地帯で動きが鈍っている所に、頭上から25人ずつが二列横隊を組んで間断なく鉄砲で狙い撃ち、さらに弓隊が射立てた。これにより織田方は多大な損害を受けて退却した[24]

その後、ゲリラ戦に持ち込まれ戦局は膠着状態となったが、鈴木孫一・土橋若大夫粟村三郎大夫ら7人は連署して誓紙を差し出し、信長が大坂表での事態に配慮を加えることを条件に降伏を誓ったため、3月15日に信長は朱印状を出して赦免した。21日、信長は陣払いして京都へ引き揚げた。

だが、足利義昭毛利輝元は「織田方は敗北した」と喧伝した[25]

信長は引き揚げるに当たり、雑賀衆の再起に備えて佐野砦(現泉佐野市)を築かせ、完成後は織田信張を駐留させた[26]

だが、半年もしないうちに雑賀衆は再び挙兵し、信長と戦うことになる。

再起と近隣への報復 編集

同年7月、雑賀荘・十ヶ郷の諸士を中心とする雑賀衆が兵を動かし、先に信長に与した三組の衆への報復を始めた。8月16日、井ノ松原(現海南市)において鈴木孫一らの雑賀衆は日高郡の国人・地侍の応援を得て南郷の土豪稲井秀次岡本弥助らと戦い、これを撃破した。同時期に信長は佐久間信盛父子を大将に70,000 - 80,000人の軍勢を動員して再び雑賀を攻めたが、この時も制圧に失敗した。

翌天正6年(1578年)5月、雑賀荘・十ヶ郷に中郷・南郷の兵も加わって宮郷の太田城を1か月にわたり包囲攻撃(第一次太田城の戦い)したが、落城には至らなかった。宮郷はその後、本願寺に謝罪して赦免を受けている。

石山開城後 編集

天正8年(1580年)に本願寺が織田信長と和睦してから、雑賀では次第に鈴木孫一と土橋若大夫が対立するようになった[27]
天正10年(1582年)1月23日、鈴木孫一は土橋若大夫を暗殺した。孫一は事前に信長に連絡して内諾を受けており、織田信張とその配下の和泉衆・根来衆の応援を得て土橋氏の粟村(現和歌山市)の居館を攻めた。土橋派は若大夫の遺児5人を立てて抗戦したが、2月8日には土橋平次・平尉(平丞)兄弟は逃亡、根来寺泉識坊[28] は討ち取られるなど雑賀の内紛は孫一の勝利で決着した。信長の後ろ盾を得た孫一主導の下、雑賀衆は織田信孝の四国攻めに船百艘を提供するなど、織田氏との関係を強めていく。

熊野攻め 編集

高野攻め 編集

信長の高野山攻め
 
高野山壇上伽藍。顕如によれば、1586年当時の山内には7,000坊の子院があったという
戦争:安土桃山時代
年月日:天正9年(1581年)10月-天正10年(1582年)6月
場所:高野山麓から紀ノ川南岸一帯
結果信長の死により織田軍撤退
交戦勢力
織田信長  高野山
指導者・指揮官
織田信孝岡田重孝松山重治(新介)など 南蓮上院弁仙花王院快応橋口隼人など
戦力
13万7000 3万6000

高野山は真言宗の本山として比叡山と並ぶ信仰の中心であると共に、全国に散在する寺領の合計は17万石に達する[29] 紀伊の一大勢力であった。

高野山と織田信長の関係悪化は、天正初年の大和宇智郡の領有問題に絡むトラブルに始まる。同8年(1580年)閏3月に荒木村重の残党5人が山内に逃げ込み、これを察知した信長は7月に前田利家不破光治使者として高野山へ差し向けたが、高野山側はこれを拒否した。8月、堺政所松井友閑配下の足軽32人が山内に入り、荒木残党の捜索を行ったところ、高野山側によって全員殺害された(高野山側は、足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたため討った、としている)。その報復として信長は9月21日、諸国の高野聖を捕えるよう命じた。

高野山は朝廷に嘆願したり信長にも謝罪の使者を送ったりと和平工作を継続していた。信長も9月21日に宇智郡の領有権を認める朱印状を高野山に与えるなど、直ちに武力行使に踏み切る意思はなかった。だが発端である荒木残党の引き渡しについては最後まで合意に達しなかった。

天正9年(1581年)8月17日、信長は高野聖数百人を安土において処刑した[30]。これを契機に、世間では高野山攻めが行われるという噂が流布するようになる。

戦いの有無と規模に関する考察 編集

『高野春秋編年輯録』によると、10月2日に堀秀政が根来に着陣したのを皮切りに、総大将・神戸信孝以下、岡田重孝、松山庄五郎らが紀ノ川筋に布陣、大和口には筒井順慶定次父子を配し、高野七口[31] を塞いで総勢137,220余人に達したとされる。これに対し、高野山側は領内の僧兵や地侍に諸国の浪人を加え、合計36,000余の軍勢を集めたとする。

しかしながら、当時なお多方面に敵を抱えていた織田氏がそれだけの兵力を高野山に投入することができたのかという疑問、また大軍に比してそれを指揮する武将の格が低すぎること、名を挙げられている人物には明らかに当時他方面で働いている者が含まれている[32] ことから、『高野春秋』の記す合戦規模については疑問符をつけざるを得ない。とはいえ、高野攻め自体については各種史料に残る断片的な情報から、虚構とも言いきれない。高野山側の記録よりもかなり小規模な形で戦いがあったとも考えられる。この項目では、基本的に戦いが実在したものとして扱う[33]

戦闘経過 編集

高野山側は伊都那賀有田郡の領内の武士を総動員し、軍師橋口隼人を中心に「高野七砦」をはじめとする多数の砦を築いた[34]。そして西の麻生津口と北の学文路口を特に重視して、麻生津口に南蓮上院弁仙(遊佐信教の子)、学文路口に花王院快応(畠山秋高の子)を大将として配置した。また学侶方の老練の僧が交替で護摩を焚き、信長降伏の祈祷を行った。

天正9年10月、織田勢は紀ノ川北岸一帯に布陣し、総大将織田信孝[35] は鉢伏山(背山)城(現かつらぎ町)に本陣を構えた。根来衆も織田方として動員された[36]。織田勢と高野勢は紀ノ川を挟んで対峙する形になったが、なお交渉は継続しており、同年中は目立った戦いはなかった。

天正10年(1582年)1月、信長は松山新介を多和(現・橋本市)に派遣する。松山は多和に築城し、2月初頭には盛んに九度山方面へ攻撃を仕掛けた。同月9日、信長は武田攻めに当たって筒井順慶以下大和衆に出陣を促した。同時に、大和衆の一部と河内衆は残留して高野山の抑えとなるよう命じた。14日、高野勢は多和城並びに筒井勢[37] の守る大和口の砦を攻撃。同月末、織田方の岡田重孝らが学文路口の西尾山の砦を攻めたが部将2人を失って撃退される。

3月3日、高野勢50余人が多和城を夜襲して損害を与えた。10日早朝、織田勢は夜襲の報復として寺尾壇の砦を攻撃、城将医王院が討死するも寄手の損害も大きく撃退された。4月初め、織田信孝は四国攻めの大将に任命されたため転任。同月、織田方の竹田藤内らが麻生津口の飯盛山城(現紀の川市)を攻撃した。高野勢は大将南蓮上院弁仙と副将橋口隼人らがこれを防ぎ、竹田ら四将を討ち取り甲首131を挙げる勝利を得た。

6月2日夕刻に至って、高野山に本能寺の変の情報が届く。まもなく寄手は撤退を開始し、高野勢はこれを追撃し勝利した。高野山は危機を脱し[38]、8月21日には恩賞が行われた[39]

秀吉の紀州攻め 編集

秀吉の紀州攻め
 
再建後の根来寺大伝法堂。和泉支配を巡り、根来寺と秀吉は対立した
戦争安土桃山時代
年月日:天正13年(1585年)3月 - 4月
場所和泉及び紀伊各地
結果:羽柴秀吉による紀伊平定
交戦勢力
羽柴秀吉  紀伊国人衆及び有力寺社
指導者・指揮官
羽柴秀長藤堂高虎
羽柴秀次田中吉政渡瀬繁詮
宇喜多秀家小早川隆景小早川秀包
堀秀政細川忠興松井康之)、蒲生氏郷池田輝政筒井定次中坊秀祐)、長谷川秀一高山重友中川秀政
大谷吉継中村一氏仙石秀久小西行長増田長盛蜂須賀正勝家政前野長康
杉若無心鈴木孫一など
畠山貞政
湯河直春
太田宗正など
戦力
60,000 - 100,000[40] 総数は不明
損害
7,000 - 10,000[41] 10,000 - 15,000以上
豊臣秀吉の戦闘
 
羽柴秀吉像

根来寺は室町時代においては幕府の保護を背景に紀伊・和泉に8か所の荘園を領有し、経済力・武力の両面において強力であった。戦国時代に入ると紀北から河内・和泉南部に至る勢力圏を保持し、寺院城郭を構えてその実力は最盛期を迎えていた。天正3年(1575年)頃の寺内には少なくとも450以上の坊院があり、僧侶など5,000人以上が居住していたとみられる[42][43]。また根来衆と通称される強力な僧兵武力を擁し、大量の鉄砲を装備していた。根来寺は信長に対しては一貫して協力しており友好を保っていたが、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の戦いにおいて留守の岸和田城を襲うなどしたほか、大坂への侵攻の動きも見せていたため、秀吉に強く警戒されており、秀吉側は根来寺を攻略する機会を伺っていた[44][45]

本能寺の変は雑賀衆内部の力関係も一変させた。天正10年6月3日朝に堺経由で情報がもたらされると、親織田派として幅を利かせていた鈴木孫一はその夜のうちに雑賀から逃亡し[46]、4日早朝には反織田派が蜂起して孫一の館に放火し、さらに残る孫一の与党を攻撃した。

以後雑賀は旧反織田派の土橋氏らによって主導されることとなった。土橋氏は根来寺に泉識坊を建立して一族を送り込んでいた縁もあり、根来寺との協力関係を強めた。また織田氏との戦いでは敵対した宮郷などとも関係を修復し、それまで領土の境界線などをめぐり関係の際どかった根来・雑賀の協力関係が生まれた。

前哨戦 編集

 
再建岸和田城

天正11年(1583年)、秀吉は蜂屋頼隆を近江に転出させて中村一氏岸和田城に入れ、紀伊に対する備えとした[47]。一氏の直属兵力は3,000人ほどで、紀州勢と対峙するには十分でなかった。そのため和泉衆[48] をその与力として付け、合わせて5,000人弱の兵力を編成した。これに対抗して根来・雑賀衆は中村・沢・田中・積善寺・千石堀(いずれも現貝塚市)に付城を築く。以後、岸和田勢と紀州勢との間で小競り合いが頻発するようになった。

同年7月、顕如は鷺森から貝塚に移った[49]

同年秋頃から紀州勢の動きが活発になる。10月、一氏は兵力で劣るために正面からの戦いを避け、夜襲で対抗するよう指示を出した。同12年(1584年)1月1日、年明け早々に紀州勢が朝駆けを行う。3日、今度は岸和田勢が紀州側の五か所の付城を攻め、これを守る泉南の地侍らと激戦となった。16日、紀州勢が来援し、五城の城兵と合わせて8,000人の兵力となり、岸和田を衝こうとした。岸和田勢は6,000人の軍勢で対抗し、近木川で迎撃して紀州勢を退けた。

大坂襲撃 編集

同年3月、根来・雑賀衆及び粉河寺衆徒は日高郡の湯河・玉置氏の加勢を得て和泉へ出撃。さらに淡路菅達長[50] の水軍も加わり、18日には水陸から岸和田・大津を脅かした。大津の地侍真鍋貞成[51] は菅水軍の200艘1,000人を撃退した。

21日、秀吉は尾張に向けて出陣。翌22日、紀州勢は二手に分かれ、一手は土橋平丞兄弟を将として4,000 - 5,000人で岸和田城を攻撃した。もう一手はを占領して堺政所・松井友閑を追い払い、さらに26日には住吉天王寺に進出して大坂城留守居の蜂須賀家政生駒親正黒田長政らと戦った。未だ建設途上の大坂の町は全く無防備で[52]、紀州勢は大坂の街を破壊し焼き払いつつ侵攻した[53]。また盗賊が跋扈し略奪が横行し、その治安の悪化は安土炎上時に匹敵したという[54]。最終的には大坂は守られ、紀州勢は堺・岸和田からも撤退した。この戦いを岸和田合戦という[55][56]

この攻勢は秀吉が小牧・長久手の戦いに出陣しようとした矢先に行われ、秀吉は一度は予定通り21日に大坂を出立したもののその後また大坂に戻るなど出鼻を挫かれることになった[57]。その後も4月には保田安政が河内見山(錦部郡)に進出し、8月には見山城を築いて活動拠点とした。またこの時期、根来・雑賀衆は四国の長宗我部氏とも連絡を取り合っていた[58]

和泉の戦い 編集

天正13年(1585年)2月、秀吉は小早川隆景に対し、毛利水軍を岸和田に派遣するよう命じた[59]。これを受けて、隆景は3月1日に自ら出発の準備を行い、まもなく隆景率いる毛利水軍が出陣してきた。

 
秀吉の紀州攻めに際し、顕如は信徒に秀吉への帰順を呼びかけた

3月9日、秀吉は貝塚寺内に対し禁制を発行して安全を保障した。同日、秀吉正室の侍女孝蔵主を貝塚本願寺へ派遣し、親睦を深めた。

同月上旬、秀吉は木食応其を使者として根来寺に派遣し、応其は拡大した寺領の一部返還を条件に和睦を斡旋した。斡旋案に対し根来衆の間では賛否分かれたが、反対派は夜中に応其の宿舎に鉄砲を撃ちかけ、このため応其は急いで京都に帰還した[60]

ついに秀吉による紀伊侵攻が開始された。上方勢は秀吉自ら指揮する100,000人、先陣は甥の羽柴秀次、浦手・山手の二手に分かれて23段に布陣した[61]。さらに多数の軍船を揃えて小西行長を水軍の将とし、海陸両面から根来・雑賀を攻めた。これに対し根来・雑賀衆は沢・積善寺・畠中・千石堀などの泉南諸城に合計9,000余人の兵を配置して迎撃した。

3月20日、先陣の秀次勢は大坂を発し、貝塚に到着。21日、秀吉は大坂を出陣し、岸和田城に入る。同日、先陣諸勢は泉南城砦群に接近したが、既に昼を過ぎていた[62] ことから即日攻撃か翌日に延期するかで議論になった。中村一氏が「これだけの兵力差があるのに攻撃を延期するのは他国への印象が悪い」と即時開戦を主張したため、直ちに戦端が開かれた。

千石堀城攻防戦 編集

千石堀城の戦い
 
泉南の根来・雑賀城砦群の図
戦争:安土桃山時代
年月日:天正13年(1585年)3月21日
場所和泉千石堀城
結果:千石堀城陥落
交戦勢力
羽柴秀吉  根来衆
指導者・指揮官
羽柴秀次
筒井定次
堀秀政など
大谷左太仁
または愛染院、福永院
戦力
18,000以上[63] 約1,500 + 非戦闘員4,000以上
損害
1,000以上 非戦闘員含め6,000以上
この時の戦いの様子は千石堀城の戦いも参照。

まず防衛線の東端にあたる千石堀城で攻防が始まった。千石堀城に籠るのは城将大谷左大仁[64] 以下根来衆の精鋭1,400 - 1,500人、他に婦女子など非戦闘員が4,000 - 5,000人加わっていたとされる[65]。攻める上方勢は羽柴秀次を主将に堀秀政・筒井定次・長谷川秀一の諸将だった。

筒井・長谷川・堀勢ら15,000人が進撃すると、城兵500余人が討って出て横合いから弓・鉄砲で奇襲を仕掛けた。「城内より鉄砲を放つこと、平砂に胡麻を蒔くがごとし」[66] という猛烈な射撃により、上方勢は多数の死傷者を出した。筒井勢などは傘下の大和衆・伊賀衆を合わせて8,000人で戦闘に臨んだが、城兵の銃撃の前に進撃を阻まれた。

味方の苦戦を見て、羽柴秀次は千石堀城がにわか造りゆえに防備は十分でないと推測し、田中吉政渡瀬繁詮ら直属の将兵3,000余人を側面から城に突撃させた。しかしこれも城方の弓・鉄砲の反撃にあって多数の討死を出す。秀次は自身の馬廻も投入して二の丸に突入させ、城兵300余人を討ち取ってさらに本丸を攻めるが、またしても城兵の弓・鉄砲により阻まれた。一連の攻防により、秀次勢の死傷者はわずか半時(約1時間)の間に1,000余人に達したという[67]

この時、筒井勢のうち中坊秀行と伊賀衆が搦手に迂回して城に接近し、城内へ火矢を射込んだ。この火矢が城内の煙硝蔵に引火爆発したため城は炎上、これが致命傷となり落城した。城内の人間は焼け死に、討って出た城兵はことごとく戦死した。秀吉は人も動物も皆殺しにするよう厳命し、城内にいた者は非戦闘員はおろか馬や犬猫に至るまで全滅した[要出典]

積善寺・沢城の開城 編集

畠中城では、日根郡の地侍・農民らからなる城兵と中村一氏が対戦した。千石堀城が陥落した21日夜、城兵は城を自焼して退却した。

同じ日の夕刻、防衛線の中核たる積善寺城でも戦闘が始まった[68]井出原右近(出原右近)山田蓮池坊らの指揮する根来衆からなる城兵に対し、細川忠興大谷吉継蒲生賦秀池田輝政らが攻撃を担当した。城兵は石・弓・鉄砲を放ちながら討って出て、寄手の先鋒細川勢と激戦を繰り広げた。細川勢の犠牲は大きかったが、蒲生勢も戦線に加わり松井康之を先頭に攻撃して城兵は城内に引き籠った。翌22日、貝塚御坊の住職卜半斎了珍の仲介により積善寺城は開城した。

西端の沢城でも戦いが始まっていた。城を守る雑賀衆[69] を攻めるのは高山重友中川秀政の両勢である。ここでも押し寄せる上方勢に城兵の鉄砲という図式は変わらず、寄手の負傷者は多数に上った。中川秀政は自ら陣頭に立って攻城に当たり、二の丸を破って本丸に迫った。本丸に追い詰められた城兵は投降を申し出、秀吉の許可の元に羽柴秀長が誓詞を入れ、23日に開城した。

沢城の開城により和泉の紀州側城砦群は全て陥落した[70]

根来・雑賀衆の敗因 編集

根来・雑賀の鉄砲衆は、その質量両面において戦国時代随一の鉄砲隊だったと言ってよい。だが、彼らが守りを固めていた和泉の前衛城砦群は、上方勢の攻撃開始から3日間で崩壊した。これは紀州側にとって完全に見込み違いの結果だった。

戦うたびに大きな犠牲を払うような不経済なことは極力避けたいというのが戦国大名の心理であった。ゆえに戦闘において前衛が大損害を被れば、それ以上無理押しをしないのが彼らの一般的な対応だった。そのため、根来・雑賀衆は、相手がどれほどの大軍であっても、先陣を切って攻めてくる敵の精鋭さえ撃ち倒してしまえばそれで敵を退けることができると考えていたと思われる。

だが、この時点で既に他大名を圧倒する国力と兵力を有していた秀吉は、兵力の損耗をさほど重んじなかったため、根来・雑賀衆側の思惑が外れた、との見方がある[71]

根来・粉河・雑賀炎上 編集

 
国宝の根来寺大塔。焼失をまぬかれたが、当時の弾痕を残している
 
再建後の粉河寺本堂

3月23日、和泉を制圧したのを見届けて秀吉は岸和田城を発し、根来寺に向かう。根来衆の主要兵力は和泉の戦線に出払っていて、寺には戦闘に耐えうる者はほとんどいなかった[72]。残っていた僧侶は逃亡し、根来寺はほぼ無抵抗で制圧された[73]。その夜根来寺は出火して炎上し、本堂、多宝塔(大塔)や南大門など一部を残して灰燼に帰した。根来寺は3日間燃え続け、空が赤く輝く様子が当時貝塚にあった本願寺から見えたという。根来寺炎上の原因については、根来側による自焼説[74]、秀吉による焼き討ち説[75] と兵士による命令によらない放火または失火説[76] がある。

同日、もしくは翌24日には粉河寺が炎上した[77]

少しさかのぼって22日、有田郡の国人白樫氏に誘われて上方勢に寝返った雑賀荘の岡衆が同じ雑賀の湊衆を銃撃し、雑賀は大混乱に陥った。同日土橋平丞は長宗我部元親を頼って船で土佐へ逃亡し[78]、湊衆も船で脱出しようとしたが、人が乗りすぎて沈没する船が出るなどして大勢の死者が出た。翌23日に上方勢の先鋒が雑賀荘に侵入し、24日には根来を発した秀吉も紀ノ川北岸を西進して雑賀に入った。同日、上方勢は粟村の土橋氏居館を包囲した。また上方勢は湊・中之島一円に放火し、他の地域もおおむね半分から三分の二は焼亡したが、鷺森寺内及び岡・宇治は無事だった[79][80]。こうして雑賀荘は「雑賀も内輪散々に成て自滅」[81] と評される最期を遂げた。

そんな中、25日には秀吉は紀三井寺に参詣する。

紀南の制圧 編集

雑賀衆残党が太田城に籠城し、上方勢の本隊は太田城攻めに当たった。その一方で仙石秀久・中村一氏・小西行長らを別働隊として紀南へ派遣し、平定に当たらせた。

上方勢の紀州攻めを前に、紀南の国人衆の対応は分かれた。日高郡を中心に大きな勢力を持っていた湯河直春は抗戦を主張したが、有田郡では神保・白樫氏が、日高郡では直春の娘婿玉置直和(和佐玉置氏)が湯河氏と袂を分かって上方勢に帰順した[82]。このため湯河直春はまず白樫氏と名島表(現広川町)で戦い、続いて玉置氏の手取城(現日高川町)を攻囲した(坂ノ瀬合戦)[83]

有田郡は紀伊守護の家格を持つ畠山政尚貞政父子の本拠である。畠山氏も湯河氏同様、秀吉に抵抗し、上方勢の攻撃対象になった。そして畠山被官の白樫・神保氏は前述の通り上方勢に寝返った。3月23日以降25日以前に、上方勢は畠山氏の支城鳥屋城(現有田川町)を攻め落とし[84]、さらに本拠の岩室城(現有田市)も陥落して畠山貞政は敗走した[85]

日高郡でも3月23、24日頃には上方勢が来襲し、湯河領に侵攻した。直春は防ぎ難いとみて小松原の居館も亀山城(いずれも現御坊市)も自焼して逃れ、伯父の湯河教春の守る泊城(現田辺市)へ後退した。しかし泊城にも仙石秀久・杉若無心が攻め寄せ、28日までには城を捨てて退却し、龍神山城(現田辺市)を経て熊野へと向かった。田辺に入ってきた上方勢3,000余人は同地の神社仏閣をことごとく焼き払い、その所領を没収した。

牟婁郡(熊野地方)では、口熊野の山本氏が湯河氏に同調して徹底抗戦した。上方勢は泊城占領後に二手に分かれ、杉若無心はおよそ1,000人[86] を率いて山本康忠の籠る龍松山(市ノ瀬)城(現上富田町)に向かい、仙石秀久・尾藤知宣・藤堂高虎は1,500人の兵で湯河勢を追った。
4月1日、仙石ら三将は潮見峠(田辺市中辺路町)において湯河勢の反撃を受け、退却した。同じ頃、杉若勢も三宝寺河原(現上富田町)で山本勢に敗れ、討伐戦は頓挫する。だが湯河・山本勢にも上方勢を駆逐するほどの力はなく、この方面の戦いは長期化することになった。

一方奥熊野では、新宮の堀内氏善が4月13日以前には降伏したのを筆頭に、高河原・小山・色川氏らはいずれも上方勢に帰順し、それぞれ本領安堵された。また口熊野でも安宅氏は帰順した。

高野山降伏 編集

4月10日、秀吉は高野山に使者を派遣して降伏を勧め、これまでに拡大した領地の大半を返上すること、武装の禁止、謀反人を山内に匿うことの禁止などの条件を呑まねば全山焼き討ちすると威嚇した。高野山の僧侶たちは評定の結果条件を全面的に受け入れることに決し、16日に客僧の木食応其を使者に立てた[87]。応其は高野重宝の嵯峨天皇宸翰空海手印の文書を携え、宮郷に在陣中[88] の秀吉と面会した。応其の弁明を秀吉は受け入れ、高野山の存続が保証された[89]。その後、10月23日までには高野山の武装解除が完了した。

この結果高野山は滅亡を免れ、太閤検地終了後の天正19年(1591年)に1万石の所領を安堵された。また木食応其個人に1,000石が与えられた[90]。同20年(1592年)、大政所追善に当たって剃髪寺(のち青巌寺、現在の金剛峯寺)を建立した際に秀吉から1万石寄進されたため計2万1000石となり、江戸時代もこれが寺領として確定する。

 
木食応其像(興山寺蔵)

太田城水攻め 編集

雑賀荘は上方勢により占領されたが、太田左近宗正を大将になおも地侍ら5,000人[91]日前国懸神宮にほど近い宮郷の太田城に籠城した。3月25日、中村一氏・鈴木孫一が城を訪れ降伏勧告を行ったが、城方は拒否した。

小雑賀の戦闘 編集

太田城以外にも、雑賀では複数の城が抵抗を続けていた[92]佐武伊賀守的場源四郎と共に小雑賀の城[93] に籠城し、32日間にわたって守り抜き、太田城開城後に続いて開城したという。

太田城攻防戦 編集

太田城の戦い
 
総光寺由来太田城水責図
戦争:安土桃山時代
年月日:天正13年(1585年)3月28日 - 4月22日
場所:紀伊太田城
結果:太田城開城
交戦勢力
羽柴秀吉  雑賀衆
指導者・指揮官
宇喜多秀家
小西行長など
太田宗正
黒田喜内など
戦力
50,000 - 100,000 1,000 + 非戦闘員4,000
この時の戦いの様子は第二次太田城の戦いも参照。

太田城はフロイスが「一つの市の如きもの」と表現したように、単なる軍事拠点ではなく町の周囲に水路を巡らした環濠集落である[94]。この城を秀吉は当初兵糧攻めで攻略する予定だったが、兵糧攻めでは時間がかかりすぎる[95] ために水攻めに変更した。強攻ではなく持久戦を選択した理由として、兵力の損耗を防ぐこともさることながら、犠牲が増えることによって苦戦の印象が広まるのを回避するためだったと思われる。これに先立つ和泉千石堀城の戦いでは、城の煙硝蔵が爆発したために1日で攻略できたものの攻城側にも多大な犠牲が出ており、太田城でその二の舞を演じることを恐れたと考えられる。

また一面では、本来太田城を守る存在であった水を使って城を攻めることで、水をも支配する自らの権力を誇示しようとしたとも考えられる。水攻め堤防は全長7.2km、高さ7mに及んだ。

上方勢は秀吉自身を総大将、秀長と秀次を副将として、その下に細川忠興・蒲生賦秀・中川秀政・増田長盛・筒井定次・宇喜多秀家・長谷川秀一・蜂須賀正勝・前野長泰などの編成だった[96]。3月28日から築堤が開始された。この築堤工事の途中、甲賀衆の担当部分が崩れたため、甲賀衆が改易流罪となり、山中大和守重友は所領を没収された。4月5日までには完成し、注水が始まる。一方城の北東には以前から治水及び防御施設として堤(以下これを横堤と呼ぶ)が築かれており、籠城が始まると城方によってさらに補強された。横堤の存在によって城内への浸水は防がれた。

 
横堤が描かれた絵図

4月8日、横堤が切れて城内へ浸水し、城方を混乱に陥れた。ところが横堤が切れたために水圧に変化が生じたことで、翌9日には逆に水攻め堤防の一部が切れ、寄手の宇喜多秀家勢に多数の溺死者が出た。籠城側はこれを神威とみなした[97]。攻城側は直ちに堤防の修復にかかり、13日までには修理を完了させた。17日に織田信雄、18日に徳川義伊石川数正が雑賀を訪れる[98]

秀吉は当初、水攻めが始まれば数日で降伏させられると考えていた[99]。しかし一度破堤したことで籠城側は神威を信じ、粘り強く抵抗していた。4月21日、攻城側は一気に決着をつけるべく、小西行長の水軍を堤防内に導く。安宅船や大砲も動員してのこの攻撃で、一時は城域の大半を占拠した。だが城兵も鉄砲によって防戦し、寄手の損害も大きく撤退した。攻略には至らなかったがこの攻撃で籠城側は抗戦を断念し、翌22日、主だった者53人の首を差し出して降伏した[100]。53人の首は大坂天王寺の阿倍野でさらされた。また主な者の妻23人を磔にかけた[101]。その他の雑兵・農民らは赦免され退城を許された。

秀吉は降伏して城を出た農民に対し、農具や家財などの在所への持ち帰りを認めたが、武器は没収した。これは兵農分離を意図した史料上初めて確認できる刀狩令と言われる[102]。宮郷の精神的支柱だった日前宮は社殿を破却され、社領を没収された[103][104]

戦後 編集

日高・牟婁郡の一部では依然抵抗が続いていたが、その他の地域はおおむね上方勢により制圧された。紀伊平定後、秀吉は国中の百姓の刀狩を命じる。紀伊一国は羽柴秀長領となり、秀長は紀伊湊に吉川平介、日高入山に青木一矩、粉河に藤堂高虎、田辺に杉若無心、新宮に堀内氏善を配置した。また藤堂高虎を奉行として和歌山城を築城し、その城代に桑山重晴を任じた。秀長による天正検地は天正13年閏8月から始まり、翌々年の同15年(1587年)秋以降に本格化する。

和議と直春の死 編集

4月末、湯河直春は反攻に転じたため、これに対応するため四国征伐軍の一部が割かれ紀伊に差し向けられた。9月24日、榎峠の合戦で湯河勢は敗れて山中へ引き籠った。だが同月末には再度攻勢に出て、討伐に当たった杉若無心・桑山重晴・美藤(尾藤)下野守らは苦戦を強いられた。結局上方勢は湯河氏らを攻め滅ぼすことはできず、和議を結び湯河氏らの本領を安堵した。

翌天正14年(1586年)、湯河直春は死去した。直春の死については毒殺説[105] と病死説[106] がある。

国人衆その後 編集

湯河氏は直春の子湯河光春(勝春)が3,000石を安堵された一方で、山本[107]・貴志・目良・山地玉置氏は没落した。神保・白樫氏ら早期に降った者は所領を安堵されたが、和佐玉置氏は1万石と伝えられる所領のうち、安堵されたのは3,500石だった[108]

生き残った熊野の諸将はおおむね堀内氏に統括されたが、色川氏などは堀内氏との因縁からその指揮下に入ることを嫌い[109]、朝鮮出兵の際には藤堂氏の指揮下に入った。

天正19年(1591年)に秀長が没すると、養子の秀保が後を継いだが、秀保は文禄4年(1595年)に急死した。以降の紀伊は秀吉の直轄地となり、大和郡山城主の増田長盛が代官として支配を行った。

紀伊国一揆 編集

 
豊臣秀長は、一揆勢に対し容赦ない弾圧を加えた

この戦いで紀伊の寺社・国人勢力はほぼ屈服・滅亡させられたが、各地の地侍はその後も蜂起を繰り返した。守護の支配さえ名目に過ぎなかったのが豊臣秀長領、次いで秀吉直轄領となり、天正検地や刀狩が行われた。次の浅野氏の統治下でも慶長検地が行われ、地侍たちは財産を削られるだけでなく社会的地位まで否定された。こうした急速な近世的支配に対する反動が土豪一揆という形で噴出した。

天正14年8月、熊野から日高郡山地郷(現田辺市龍神村)にかけての山間部で一揆が起こり、吉川平介らによって鎮圧された。慶長3年(1598年)9月、前月の秀吉の死に乗じて再び日高郡山地郷で一揆が起こり、増田長盛の指揮のもと堀内・杉若氏ら日高・牟婁郡の諸将によって老若男女の別なく撫で斬りにするといった弾圧の末に鎮圧された。

慶長19年(1614年)12月、大坂冬の陣に乗じて奥熊野の地侍・山伏らが蜂起し、新宮城を攻撃した。一揆勢は熊野川で敗退し、浅野勢の奥熊野侵攻によって20日足らずで鎮圧された(北山一揆)。この一揆で363人が処刑された。翌20年(1615年)4月、大坂夏の陣の勃発に伴い、日高・有田・名草の地侍が浅野長晟が留守の和歌山城を狙って蜂起したが、再度鎮圧された。処刑者は443人に上った。浅野側はこの2回の一揆を紀伊国一揆と称した。紀伊国一揆の敗北によって、土着勢力の抵抗は終息した。

中世と近世(意義) 編集

紀州征伐はその範囲は和泉・紀伊の二カ国にすぎないが、この一連の戦いでは中世近世とを分けるいくつかの重要な争点が存在した。

「無縁」の否定 編集

比叡山や高野山は寺社の中でも最高級の格を持ち、その中立性と不可侵性は中世を通じて尊重された。またその独立性は、権力者の介入を退けるだけの経済力と軍事力によって裏打ちされたものであった。一度境内に入ってしまえば、外の事情は一切考慮しない、誰でも受け入れる。ゆえに権力者が寺内で権力を振りかざすことも認めない ―― このような寺社の思想を伊藤正敏は「無縁」と呼ぶ。

織田信長は、寺社の「無縁」性が敵対者の盾となることを嫌った。比叡山に対する浅井・朝倉軍の退去要求、高野山に対する荒木残党引き渡し要求など、信長は敵方の人間を受け入れないよう寺社に対し要求した。これは外部に対する独立・中立性の放棄であり、無縁の思想からすれば受け入れられないものだった。こうして比叡山焼き討ち・高野攻めへとつながり、比叡山は滅び高野山は信長の横死によって命拾いした。

羽柴秀吉も、寺社に対する姿勢は信長ほど苛烈では無かったものの、基本的には信長の態度を受け継いだ。高野山降伏後に秀吉は、謀反人や犯罪者を匿うことを禁止する、受け入れていいのは世捨て人だけだと告げた。天下人が全てを掌握し管理する近世中央集権体制にとって、権力の介入をはねのける寺社勢力の思想は相容れないものだった[110]。もっとも、この時代以前にも、例えば平清盛は朝廷より比叡山攻めを命じられており、また南北朝の争いにおいては比叡山は南朝方を支援するなどしている。不可侵性が犯されたり、非中立的に外部権力との関わりをもったりしたのは、戦国時代が初めてというわけではない。

一揆と地侍 編集

戦国時代後半の社会は、二つの相反する可能性を示唆していた。一つは信長・秀吉の天下統一事業に代表される、強大な権力者を頂点とする中央集権体制、いわば「タテの支配」である。そしてもう一方に、加賀一向一揆や紀伊雑賀などの惣国一揆を代表とする大名の支配を排した地域自治体制、いわば「ヨコの連帯」があった。両者は相容れないものであり、信長・秀吉が天下統一を達成するためには、どうしてもこれら惣国一揆を屈服させなければならなかった。信長によって加賀一向一揆は潰滅したが、雑賀惣国や根来衆は未だ健在であり、秀吉はこれに対する敵意を隠さなかった。

太田城の開城に伴い死を与えられた者たちは、一揆の主導層である地侍である。続いて行われた検地・刀狩も、その目的には兵農分離、すなわち体制の一部として天下人に従う武士と、単なる被支配者である農民とに国人・地侍を分離し、解体することが含まれていた。その後の武士は、知行地を与えられてもその土地と私的な関係を結ぶことは許されなくなり、惣国一揆が再び芽生えることはなかった[111]。やがてこうした体制は、徳川政権の時代に入ると士農工商による強い身分制度や藩制度などへと強化された。

刀狩 編集

寺社勢力や惣国一揆を存立せしめたのは、彼ら独自の軍事力による所が大きい。これらを解体するためには、寺社や地侍、そして農民をも武装解除することが必要だった。秀吉は太田開城時に指導層の地侍を処断する一方、一般農民は退城を許したが、この時農民の武装解除を命じた。この武装解除命令は、後年の全国の刀狩の嚆矢として原刀狩令と呼ばれる。次いで2ヶ月後の天正13年6月、紀州惣国及び高野山に刀狩令が発せられる。武装解除させられた高野山にもはや権力の介入を拒む術はなく、寺社の中立・独立性は否定された。そして天正16年(1588年)7月8日、全国に刀狩令が発せられた[112]

結語 編集

海津一朗は「太田の決戦は、中世を象徴する宗教的な民衆武力と、兵農分離の近世秩序が、真正面から戦いあった日本史上のクライマックス」であり、「紀州は「秀吉の平和」、すなわち日本の近世社会の発祥の地であり、それに抵抗した中世終焉の地だったことになる」と述べている[113]。ここに寺社勢力は消滅し、惣国一揆は潰え、武家による一元支配の近世が始まる。

脚注 編集

  1. ^ フロイスは雑賀の住民は全て一向宗徒だとしている(『荘園の世界』上巻p.17)が、実際には他宗の信者である住民も多くいた。
  2. ^ 『荘園の世界』上巻p.9
  3. ^ 雑賀に関する資料に出てくる「惣国」という言葉について、現在の主流は雑賀五組の結集、すなわち雑賀惣国を指すという解釈である。一方で雑賀衆、根来寺、高野山、粉河寺、湯河氏、熊野衆らが畠山氏を推戴した一国規模の一揆であるという説があるが、現在は否定的に見られている(『戦国鉄砲・傭兵隊』p.36)。
  4. ^ 紀伊の全水田面積の80 - 90% が寺社領だったとされる(『寺社勢力の中世』p.108)。
  5. ^ 応永25年(1418年)、畠山氏は当時熊野本宮領の田辺を押領しようとして反撃を受け敗れた。また長禄4年(1460年)、守護畠山義就は根来寺と粉河寺の紛争に介入して根来衆と戦い、口郡守護代遊佐盛久以下700人以上を失う敗北を喫した(『和歌山県の歴史』pp.130-132)。
  6. ^ 被官化した国人衆は畠山氏の分国支配には関わらなかったが、軍事動員には応じた(『和歌山県の歴史』p.132)。
  7. ^ 応永21年(1414年)、高野山は山の入口に立札を立てて、幕府・守護といえども高野山の承認なく山内で警察権を行使することを禁止した(『寺社勢力の中世』pp.178-179)。
  8. ^ 寺院の不可侵性の強弱は、それぞれの寺院の格と実力によって変化した(『寺社勢力の中世』p.184)。
  9. ^ フランシスコ・ザビエルは日本の主な大学として京都五山、高野山、根来寺、比叡山、園城寺足利学校を列挙している。(『荘園の世界』上巻pp.1-5)。
  10. ^ この節の記述は、特記するものを除き『寺社勢力の中世』に基づく。
  11. ^ 土橋氏は浄土宗門徒であるにもかかわらず真言宗根来寺に泉識坊を有し、しかも一向一揆にも参加している。
  12. ^ フロイスは根来の僧について「絹の着物を着て俗人の兵士のような服装をし、富裕なため両刀には金の飾りをつけ、衣服は俗人と異なる所がなかった。頭髪は背の半ばにまで伸ばして結んだ。また軍事に極めて熟達し、とりわけ弓と鉄砲の訓練に励んだ」と描写する(『寺社勢力の中世』p.98及び『信仰と自由に生きる』p.321)。
  13. ^ 高野山も、行人の「惣分」によって政策が決められている点は根来寺と同様だった(『日本の中世寺院』p.123)。
  14. ^ 正確には合議制ですらなかった。根来寺内部では多数の会議が乱立して収拾がつかないほどであり、結局は少数の有力行人が決定を左右しており、「首長なし」と表現された(『寺社勢力の中世』p.168)。
  15. ^ 主に荘園領主や農民に対する金融業の担保や利息として、田地の徴税権など(加地子も参照)を獲得するという方法で行われた(『信仰と自由に生きる』pp.336-338)。
  16. ^ この場合の「百姓」とは、兵農未分離の有力農民、すなわち地侍を中心とするものである(『秀吉の天下統一戦争』p.159)。例として、佐武伊賀守は後に日高郡山地郷で一揆を起こした地侍らを「百姓」と呼んでいる(『戦国鉄砲・傭兵隊』p.32)。なおこの時代、「百姓」は農民のみを指す言葉ではなく、多くの非農耕民(商人・工人・海民など)を包含する言葉だった(網野(2007))。
  17. ^ 『昔阿波物語』は讃岐十河氏に仕えた二鬼島道智の著作である(『戦国鉄砲・傭兵隊』p.31、『戦国合戦大事典』p.304)。
  18. ^ 『戦国鉄砲・傭兵隊』pp.115-116。
  19. ^ 武内善信「雑賀一揆と雑賀一向一揆」(大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年)P298-325)
  20. ^ 両軍の兵力については『戦国鉄砲・傭兵隊』p.117
  21. ^ 三組の中にも、組の決定に反して本願寺方に留まる者もいた(『荘園の世界』上巻p.277、『戦国合戦大事典』p.240)。
  22. ^ その他に稲葉一鉄氏家直昌不破光治丹羽氏勝などが参陣したことが記されている(『信長公記』pp.36、38)。
  23. ^ 『戦国鉄砲・傭兵隊』p.148
  24. ^ この時の勝利を祝う人々が雑賀荘鎮守関戸矢の宮で踊ったのが起源となり、現在でも和歌浦東照宮の祭礼和歌祭で踊られている雑賀踊りが誕生した。雑賀踊りの特徴である片足での踊りは、鈴木孫一が負傷した足をいたわりながら踊ったことに由来すると言われている(『和歌山・高野山と紀ノ川』pp.68-69、72)。
  25. ^ 『戦国鉄砲・傭兵隊』では、降参というのはあくまで名目上のことに過ぎず、雑賀衆の形式的な降伏と引き換えに織田勢が撤退したというのが事実に近い、と推測している。
  26. ^ 信張は天正10年1月には岸和田城主だったとされるが、6月時点では岸和田城主は蜂屋頼隆に交替していたようである。蜂屋頼隆は同年に入ってから和泉一国の支配権を与えられて和泉国人衆を統括することになった((谷口(2005)pp.190、213)。
  27. ^ 対立の原因は不明だが、天正9年8月時点で両者に土地を巡る紛争があり、当時鷺森にいた顕如が仲介に入っていた(『戦国合戦大事典』p.280)。
  28. ^ 泉識坊の門主は土橋氏出身なのが通例で、この泉識坊も土橋氏と推定される(『戦国合戦大事典』p.281)。若大夫の子とする説もある(『荘園の世界』上巻p.279)。
  29. ^ 『戦国合戦大事典』p.258より。
  30. ^ 『信長公記』p.228『戦国合戦大事典』p.253では9月30日に京都、安土など3か所で約600人としている。
  31. ^ 高野七口の内訳は、西側に保田口(大門口)と麻生津(おうづ)口、北に学文路(かむろ)口、北東に大和口、東に大峯口、南に龍神口と熊野口とする。
  32. ^ たとえば堀秀政について、『高野春秋』では天正9年10月初頭には紀伊に着陣し、また翌10年4月には四国攻めの大将となった織田信孝に代わって総大将になり、6月には退却の指揮も取ったとされているが、『信長公記』では天正9年9月から10月中旬までは伊賀攻めに出陣、翌年3月には武田攻めに従軍、5月下旬には上洛中の徳川家康の接待役を命じられていた。
  33. ^ この段落の考察は、特記するものを除き『戦国合戦大事典』p.254-255
  34. ^ 「高野七砦」の配置は以下の通り。
    • 西の脇庵の砦(城将は西方院覚心)……茶臼山城(現紀の川市(旧那賀町))を指す
    • 龍門山雲路の砦(大光明院覚乗)……最も西側にある砦
    • 寺尾壇の砦(医王院正算)
    • 九度山槇の砦(智荘厳院)
    • 雨壺山の砦(橋口隼人重藤)……これも九度山方面
    • 東・茂原薬師砦(花応院快応) 西・西尾山砦(全光院覚応)……学文路方面。東西二砦を合わせて一つと数える
    • 地蔵ヶ峰の砦(三宝院長政)……大和口・吉野大峰方面
    (『城郭大系』10巻pp.451-452より)
  35. ^ 『信長公記』には信孝が高野攻めの将になったという記述はない。ただし、『信長公記』では信孝に関する記述は天正9年7月25日(信長から脇差を賜った)以降翌10年5月11日(四国攻めの大将となり、摂津住吉に到着)までなく、同年1月の安土の年賀の席にも名前がない。
  36. ^ 『和歌山県史』p.643
  37. ^ 筒井順慶本人が高野攻めに参戦した確証はない。
  38. ^ 無量寿院清胤は7月26日付けの上杉景勝宛の書状で、数度の合戦にいずれも高野勢が勝利し、織田勢を山内に入れなかったと述べている(『戦国合戦大事典』p.257)。
  39. ^ この節の戦闘経過に関する記述は『戦国合戦大事典』pp.255-258
  40. ^ 『城郭大系』10巻p.466では60,000、『中世終焉』p.119では100,000とする。
  41. ^ 『ルイス・フロイス イエズス会日本年報』では秀吉軍の死者約10,000人、紀州勢の死者15,000人以上としている(『中世終焉』p.158)。同じくフロイスの『日本史』ではそれぞれ7,000 - 8,000人と10,000人以上とする(同p.160)
  42. ^ 『久遠の祈り』p.250
  43. ^ 『日本史』では根来寺には僧侶だけで8,000 - 10,000人がいたと述べ、一方で高野山には3,000 - 4,000人の僧侶がいたと記す。この数字に対して複数の解釈がありうるが、小山靖憲は人数そのものでなく両寺の数の比率に着目し、「実態はともかくとして、根来寺には高野山の約二倍の兵力があるとフロイスはみていたのである」と述べている(『荘園の世界』上巻p.16)。
  44. ^ 秀吉は根来寺に対して、72万石ともいわれる寺領を全て納めるよう要求し(『城郭大系』10巻p.459)、改めてわずかな土地(一説に2万石)を与えようと持ちかけたが、根来側に一蹴されて討伐を決意したと伝えられる(『戦国合戦大事典』p.299)。
  45. ^ 本能寺の変から実際に紀州攻めが行われるまでの3年間に、秀吉は天正10年10月、同11年夏、同12年2月及び10月と計4回根来討伐を計画している(『戦国合戦大事典』p.299)。
  46. ^ 孫一は後に羽柴秀吉に仕えた。
  47. ^ 同年2月、秀吉は賤ヶ岳の戦いに出陣中であったが和泉の地侍を大坂城に集め、尾藤知宣戸田勝隆を使者として送り紀伊の動向を説明させ、岸和田城に中村一氏を配置することに同意させた(『大阪府史』p.37)。
  48. ^ 和泉の地侍のうち、おおむね岸和田以北の者は中村一氏に従い、岸和田以南の者は紀州側に加わっている(『大阪府史』pp.39-40)。
  49. ^ 雑賀衆らの秀吉への敵対に、本願寺が関与していないことを示すためと言われる(『荘園の世界』上巻p.280)。
  50. ^ 当時菅氏は本拠である洲本城を秀吉によって追われ、広(現広川町)に移っていた。広は15世紀後半以降畠山氏の紀伊における本拠であり(『荘園の世界』上巻p.9、同下巻p.32)、菅氏が広を拠点とすることについては畠山氏との間に何らかの了解があったと考えられる(六章、十六世紀末の淡路水軍・菅氏と豊臣秀吉)。
  51. ^ 貞成の父は第一次木津川口の戦いで織田方の水軍の将として戦死した真鍋七五三兵衛貞友とされる(六章、十六世紀末の淡路水軍・菅氏と豊臣秀吉)。
  52. ^ 紀州側は建設中の大坂城を焼き払う狙いもあったという(『戦国鉄砲・傭兵隊』p.200)。
  53. ^ 紀州勢は通過した所をことごとく破壊焼却しつつ、ゆっくりと前進した(『大阪府史』p.47)。
  54. ^ 『イエズス会日本年報』より(『大阪府史』pp.46-47)。
  55. ^ 岸和田合戦の兵力について。秀吉側の言う所では、この戦いでの岸和田勢の兵力は8,000人、紀州勢は30,000人とされている(『城郭大系』12巻p.202)。『イエズス会日本年報』では紀州勢を15,000人としている(『大阪府史』p.46)。
  56. ^ 岸和田合戦の結果について。秀吉は佐竹義重宛の書状で岸和田勢が紀州勢の首5,000を討ち取ったと語っている。『日本史』では中村一氏が4,000余人を殺したと述べる。『宇野主水日記』では769の首を取り、その他にも討ち捨てた首があちこちにあったと記す(以上『和歌山県史佐竹義重』pp.647-648)。一方で、秀吉の言う通りなら大活躍したはずの中村一氏の伝記『中村一氏記』では、岸和田合戦について何も語っていない。また『真鍋真入斎書付』では一氏がこの戦いの後の行賞で近江水口6万石にとどまったのは、岸和田在城時に働きがよくなかったからだという説がある(『戦国鉄砲・傭兵隊』p.201)。
  57. ^ これに先立ち、徳川家康は井上正就を根来・雑賀に送って同盟を結び、大坂襲撃を促している(『僧兵の歴史』p.285)。とはいえ、紀州勢は家康を助けるためにわざわざ出兵したのではなく、前述の通り根来寺と秀吉の間には元々対立する状況があった(『戦国鉄砲・傭兵隊』pp.196、199)。
  58. ^ 菅達長香宗我部親泰を通じて長宗我部氏と結んでいた(六章、十六世紀末の淡路水軍・菅氏と豊臣秀吉)。また天正14年9月、雑賀衆と長宗我部氏が合同で軍議を行っており、四国・紀州連合軍による大坂襲撃も計画されている(『戦国鉄砲・傭兵隊』p.201)。
  59. ^ 同月、秀吉は毛利からの人質である小早川秀包に1万石を与えた上で安芸へ帰国させた。秀包は翌月には岸和田派遣の水軍に加わり出陣してきた(『大阪府史』pp.55-56)。
  60. ^ 『根来破滅因縁』より(『木食応其』pp.78、190)。
  61. ^ うち宇喜多秀家勢が12,000人、蒲生氏郷勢が5,000人、また鉄砲隊は7,000人を数えたという(『和歌山県史』pp.649-650)。
  62. ^ 『イエズス会日本年報』によると午後4時以降(『戦国合戦大事典』p.60)。
  63. ^ 両軍の兵力と損害については『戦国合戦大事典』pp.59-61。
  64. ^ 『戦国合戦大事典』p.59『日本城郭大系』12巻p.218では根来左太仁とする。
  65. ^ 戦国時代、城は戦争時における領民の避難場所であり、敵軍の侵攻時に非戦闘員多数を含む住民が籠城に加わるのは全国至る所でありふれた光景だった(藤木(1995))。
  66. ^ 『秀吉事記』より(『戦国合戦大事典』p.59)。
  67. ^ 『イエズス会日本年報』によると、自軍が二度までも撃退され、大きな犠牲を出したのを見た秀吉は、自ら敵の鉄砲の射程内に前進して士気を鼓舞した。
  68. ^ 『蒲生軍記』では城兵は千石堀落城の様子を聞いて、戦わずして逃亡したとある。
  69. ^ 城将は不明。一説には的場源四郎とも言われる。
  70. ^ 千石堀・積善寺・沢城の戦闘に関する記述は『戦国合戦大事典』pp.55-61
  71. ^ この節の考察は『戦国鉄砲・傭兵隊』pp.70、74、197-198、204
  72. ^ 『戦国合戦大事典』p.300
  73. ^ 『城郭大系』12巻p.217
  74. ^ 『荘園の世界』上巻p.281
  75. ^ 秀吉自身は小早川隆景にあてた書状において、自分の命令で焼き払わせたと述べている(『中世終焉』p.142)。また昭和62年(1987年)度に検出された寺内の油倉遺構の調査によると、灯油を貯蔵していた大量の大甕をことごとく逆さにして叩き割った上に倉ごと焼き払われていた痕跡がある。当時灯油の販売は根来寺の収入源の一つであり、秀吉は根来寺が再度巨富を得ることを恐れて油の貯蔵設備を破壊したのではないかと考えられる(『久遠の祈り』pp.284-285)。
  76. ^ 竹中重門は著書『豊鑑』において、申の刻(午後3時から5時頃)突然出火して燃え広がり、秀吉の宿舎にも燃え移ったため秀吉は山の上に避難したと述べている。また根来寺の僧で上方勢来攻直前に高野山に避難した日誉は、『根来破滅因縁』において軍勢が寺内で略奪に夢中になっている間に、昼間のうちにあちこちで火災が起こり、兵士の武具も焼失するような状況だったことを伝聞として記す。ルイス・フロイスは、翌日になれば秀吉が略奪禁止令を出すことを恐れた兵士たちが、夜のうちに放火略奪を行い、その火が燃え広がったために秀吉も宿舎から逃げ出して山の上で夜を明かすことになったと述べる(以上いずれも『戦国合戦大事典』p.300-301)。
  77. ^ 根来寺同様、一般的には秀吉による焼き討ちとされている。しかし宇野主水(顕如側近)の日記によると秀吉の軍勢が来る前に少人数が放火して「自滅」したとあるので、粉河寺側による自焼と解するべきという意見(『戦国合戦大事典』p.303)もある。
  78. ^ 土橋平丞は4月4日、土佐から戻って降伏した。
  79. ^ 『貝塚御座所日記』(『宇野主水日記』)より。この知らせは24日昼に鷺森から貝塚に届いた(『中世終焉』p.150)。
  80. ^ 焼けた地域と焼けなかった地域で、雑賀荘の抗戦派と帰順派のおおよその地域的な色分けができる(『戦国鉄砲・傭兵隊』p.205)。
  81. ^ 『貝塚御座所日記』より(『中世終焉』p.150、原文カタカナ)。
  82. ^ 『玉置覚書』では紀州奥郡で秀吉に味方したのは前記の3氏のみだったのに対し、湯河氏に同心して抵抗したのは36氏に上ったとする(『高山公実録』p.39)。
  83. ^ 『玉置覚書』によると玉置勢が湯河氏の所領である小松原(現御坊市)に放火したのを皮切りに、3月21日湯河勢8,000人と玉置勢1,600人が坂の瀬において対戦し、玉置勢は善戦したが83人が討死して敗退し、手取城に籠城した。三日三夜攻防が続いた所に仙石秀久・小西行長が数百艘の兵船と大軍を率いて押し寄せたため、湯河勢は山中に退いた。それでも、直春は二百余名で手取城を攻めて焼き払い、玉置直和は落ち延びた(『高山公実録』pp.39-40)。一方『田辺市誌』では手取城は落城して玉置直和も殺されたとする(『戦国合戦大事典』p.320)。
  84. ^ 鳥屋城攻略に当たって、『武徳編年集成』によると白樫氏が攻撃に参加した。また『星田家所蔵文書』によると神保春茂は在城していたが秀吉に内通し、城内の抗戦派を暗殺して開城に導いた。また守城側には根来衆が参加していた(『戦国合戦大事典』pp.317-318)。根来寺は戦国時代を通じて畠山氏の軍事動員に応じている(久米田の戦い教興寺の戦い野田城・福島城の戦いなど参照)。
  85. ^ 岩室城の落城日時は不明である。
  86. ^ 『戦国合戦大事典』p.329
  87. ^ 根来寺への使者を務めたことから(「和泉の戦い」の項参照)、応其と秀吉の間には紀州攻め実行以前からつながりがあったことが推測される(『木食応其』p.190)。
  88. ^ 当時、太田城水攻めの最中だった。
  89. ^ 天正14年(1586年)7月21日、秀吉は応其の功績を称え、「高野の木食と存ずべからず。木食が高野と存ずべき」と述べたと応其自身は記している。いずれにせよ、この交渉によって秀吉は応其を信任し、重用するようになる(『僧兵の歴史』pp.289、294及び『木食応其』p.175)。
  90. ^ 応其の没後は寺領に編入された。
  91. ^ 5,000人の内訳について、『太田水責記』では「黒田喜内を始として1,000余人、雑兵児女共に凡5,000人(原文カタカナ)」(『中世終焉』p.166)、『根来寺焼討太田責細記』では「軍勢五千余騎」(同p.172)、『太田城由来并郷士由緒之事』では「黒田喜内を始千余人、其外百姓の妻子共都合五千人」(同p.177)とする。秀吉側の史料では『玉置覚書』が「千人計り」としている(『高山公実録』p.39)。
  92. ^ 『太田水責記』では小雑賀・中津の二城、『根来寺焼討太田責細記』では雑賀・吹上・中津の三城を挙げている。『イエズス会日本年報』も城名は挙げていないが二城が抵抗し、14日間(『日本史』では4日間)足止めされたと記している(『戦国鉄砲・傭兵隊』p.207)。
  93. ^ 当時小雑賀にそれに該当する城はなく、弥勒寺山城のことではないかと推測される(『戦国鉄砲・傭兵隊』p.188)。
  94. ^ 『中世終焉』所収の北野隆亮『考古学から見た太田城跡』より。太田城跡とされる遺跡からは大量の土器・陶磁器が出土しており、中世を通じて恒常的に生活・消費活動が行われていたと考えられる。また瓦も頻繁に出土しており、寺院を含む相当数の瓦葺き建物が存在したと推測される。
  95. ^ フロイスは城内に20万俵以上が備蓄されていたと述べている(『中世終焉』p.155)。
  96. ^ 『戦国合戦大事典』p.311。増田長盛は兵糧奉行として、兵庫尼崎などから紀伊湊(紀ノ川河口)への兵糧輸送の指揮を執っている(『和歌山県史』p.575)。
  97. ^ 太田側の資料では、日前宮から白鷺が飛来するや堤が崩れた(『根来寺焼討太田責細記』)、森から現れた蛇が水面を渡り、泳ぎ着いた場所の堤が切れた(『紀伊国名草郡太田総光寺中古縁起』)などと「神威」の様子を表現している(いずれも『中世終焉』史料編所収)。
  98. ^ 秀吉は太田城水攻めの様子を彼らに見せることで、間接的に徳川家康に自分の力を見せつけようとしたとも考えられる。
  99. ^ 4月5日付の生駒氏宛て書状では「二三日之中」、同13日付丹羽長秀宛て書状では「五三日中」には落とせると書いている(『中世終焉』pp.143、145)。
  100. ^ 『イエズス会日本年報』
  101. ^ 磔にされた人数は『中家文書』では23人、『イエズス会日本年報』では18人、『日本史』では28人とする(『戦国合戦大事典』p.313、『中世終焉』史料編より)。
  102. ^ 『中世終焉』p.137及び『荘園の世界』上巻p.282。
  103. ^ 『荘園の世界』下巻p.152。
  104. ^ この項における考察は、特記するものを除き『中世終焉』所収の弓倉弘年『太田城水攻めの歴史学的考察』に基づく。
  105. ^ 『湯川記』などによると、天正14年2月、直春と山本康忠は本領安堵の確認のために大和郡山城に赴いて羽柴秀長に面会した。しかし対面後もそのまま旅館に留め置かれ、7月16日に至って毒殺されたとする(『戦国合戦大事典』p.328)。
  106. ^ 『渡部家文書』によると直春は秀長によって5,000石を安堵されたが、翌14年4月23日に病死したとする。また直春が本当に毒殺されたのなら、湯河一族がその後も豊臣氏や藤堂氏に多数仕えていることの説明がつかない(『戦国合戦大事典』pp.328-329)。
  107. ^ 山本康忠の最期については諸説ある。武家家伝_紀伊山本氏 では湯河直春と共に大和郡山で毒殺されたとしている。『紀伊続風土記』『湯川実記』では秀長との会見後浴室で槍に突かれて殺されたとされる(『日本城郭大系』10巻p.541)。一方『高山公実録』では藤堂高虎が山本主従253人を山中から誘い出して騙し討ちにしたと述べている(p.51-52)。『多門院日記』では山本氏は天正14年9月頃まで抗戦を続けており、その後投降したが11月頃までに処刑されたとする(『戦国合戦大事典』pp.334-335)。
  108. ^ 武家家伝_玉置氏 より。これについて、秀長から領地の高を問われた際に旧高で答えたためにその分の知行しか与えられなかったという逸話がある(『戦国合戦大事典』p.321)。一方で、天正15年以降の検地によって、名目の知行は同一ながら実質は三分の一に所領を減らされたとも伝えられる(『岩波講座日本通史』11巻p.123)。玉置直和は失望して家督を子の永直に譲り、高野山に出家したという。
  109. ^ 紀州攻め以前の熊野は、隣接地域への侵攻を繰り返し勢力を拡大する堀内氏に対し、高河原・小山・色川氏らが共同で抵抗するという構図だった。『風雲戦国史』(外部リンク参照)各氏の項より。
  110. ^ この節の考察は『寺社勢力の中世』『日本の中世寺院』に基づく。
  111. ^ この考察は『秀吉の天下統一戦争』『岩波講座日本通史』11巻及び同10巻に基づく。
  112. ^ この節の考察は、『秀吉の天下統一戦争』『寺社勢力の中世』に基づく。
  113. ^ 『中世終焉』冒頭の海津一朗『「秀吉の平和」と現代』及びp.138。

参考文献 編集

項目全体に参照したもの

主に信長の紀州攻め部分に参照したもの

主に秀吉の紀州攻め部分に参照したもの

  • 海津一朗編『中世終焉――秀吉の太田城水攻めを考える』(清文堂出版、2008年) ISBN 9784792406523
  • 菅原正明『久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 第二巻』(清文堂出版、2002年) ISBN 4792405076
  • 日置英剛編著『僧兵の歴史』(戎光祥出版、2003年) ISBN 4900901288
  • 上野市古文献刊行会編『高山公実録〈藤堂高虎伝〉上巻』(清文堂出版、1998年) ISBN 4792404371
  • 大阪府史編集専門委員会『大阪府史 第5巻 近世編1』(大阪府、1985年)
  • 『特別展「没後四百年 木食応其 ――秀吉から高野山を救った僧――」』(和歌山県立博物館、2008年)
  • 小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4642063250
  • 『岩波講座 日本通史 第10巻 中世4』(岩波書店、1994年) ISBN 4000105604
  • 『岩波講座 日本通史 第11巻 近世1』(岩波書店、1993年) ISBN 4000105612
  • 峰岸純夫・片桐昭彦編『戦国武将・合戦事典』(吉川弘文館、2005年) ISBN 4642013431
  • 藤木久志「3戦場の村――村の城」『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日新聞社、1995年) ISBN 4022568941

(一部資料名において、ローマ数字をアラビア数字で表記)

関連項目 編集

外部リンク 編集