耶律 堯骨(やりつ ぎょうこつ)は、契丹帝国()の第2代皇帝。太祖耶律阿保機の次男。漢名は耶律徳光。

太宗 耶律堯骨
契丹(遼)
第2代皇帝
王朝 契丹(遼)
在位期間 天顕2年11月15日 - 大同元年4月22日
927年12月11日 - 947年5月15日
都城 上京臨潢府
姓・諱 耶律堯骨
耶律徳光(漢名)
徳謹
諡号 孝武恵文皇帝
廟号 太宗
生年 天復2年10月23日
902年11月25日[1]
没年 大同元年4月22日
947年5月15日
太祖
淳欽述律皇后
后妃 靖安蕭皇后
陵墓 奉陵
年号 天顕 : 927年 - 938年
会同 : 938年 - 947年
大同 : 947年

生涯 編集

天顕元年(926年)、太祖( 耶律阿保機)が崩御した時、皇太子だった同母兄の耶律突欲は生母の月里朶(ユリド、述律皇后)に嫌われて廃嫡され、東丹国の王となっていた。

その為、太祖なき後の契丹帝国の皇位はしばらく空白となり、その期間を、述律皇后が称制を執ることになった。

天顕2年(927年)、述律皇后から後継者として耶律堯骨が正式に指名され、契丹帝国の2代皇帝として即位した。

そのため、元・皇太子の耶律突欲沙陀族の王朝後唐に降伏し、明宗(李嗣源)の下に去った。

天顕8年(933年)、後唐の明宗(李嗣源)が崩御すると、後継をめぐって争いが表面化した。

耶律突欲は太宗(耶律堯骨)に後唐への軍事介入を促した。

その後継争いの渦中にあった沙陀族の石敬瑭は、燕雲十六州を割譲することと引き替えに契丹帝国と手を結んだ。

そして、石敬瑭はその援護を受けて後唐の4代皇帝の李従珂を滅ぼし、「後晋」を立てた(この一連の混乱の最中に耶律突欲李従珂によって暗殺された)。

太宗(耶律堯骨)は、燕雲十六州を来るべき南進の基点として整備した。

建国の経緯から後晋は事実上契丹の傀儡政権であったが、会同5年(942年)の高祖石敬瑭の死後は契丹からの独立を図るようになった。

これを懸念した太宗(耶律堯骨)は軍を挙兵して南進を開始した。

会同9年(946年)、契丹帝国は一気に後晋の首都の大梁(現在の開封)を陥落させて華北を占領し、後晋を滅亡させた。

翌会同10年(947年)正月元日、太宗(耶律堯骨)は開封に入城し、国号を中華風に「大遼」()と改称、年号大同とした。ただし、これ以後も「契丹」と「」の国号は併存した。

太宗(耶律堯骨)はしばらく開封にとどまったが、遠征によって兵站に支障を生じ、3カ月後に開封を発して北の幽州に帰還を図った。しかしその途中、欒城で病没した。享年46。

宗室 編集

后妃 編集

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  • 耶律述律(穆宗)
  • 耶律罨撒葛(太平王)
  • 耶律天徳(苾扇)
  • 耶律敵烈(巴速菫、冀王)
  • 耶律必摂(箴菫、越王)

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  • 耶律呂不古(燕国大長公主、蕭思温の妻)
  • 耶律嘲瑰(蕭海瓈の妻)

参考文献 編集

脚注 編集

  1. ^ 遼史』巻三太宗紀上天顕3年10月甲子(23日)条に、太宗の誕生日(天授節)であるとの記述がある。太宗が生まれた唐の天復2年10月23日はユリウス暦で換算すれば902年11月25日となる。
先代
太祖
契丹/の第2代皇帝
927年 - 947年
次代
世宗

関連項目 編集