荒井幸雄

日本の元プロ野球選手

荒井 幸雄(あらい ゆきお、1964年10月13日 - )は、神奈川県横浜市金沢区出身[1]の元プロ野球選手外野手)、野球指導者。

荒井 幸雄
2012年3月18日
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県横浜市金沢区
生年月日 (1964-10-13) 1964年10月13日(59歳)
身長
体重
170 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1985年 ドラフト2位
初出場 1986年9月24日
最終出場 2000年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
オリンピック
男子 野球
1984 ロサンゼルス 野球

愛称は同姓のタレント荒井注にちなみ「チューさん」。ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト

経歴 編集

プロ入りまで 編集

横浜市立六浦中学校から横浜商業高校に進学。中堅手として1982年春の選抜に出場。2年生エース三浦将明を擁し準決勝に進出するが、この大会に優勝したPL学園榎田健一郎投手に抑えられ、2-3xで9回サヨナラ負け[1]。高校通算43本塁打を記録している[1]

卒業後は社会人野球日本石油に所属、1984年ロサンゼルスオリンピック野球日本代表では四番に座り金メダル獲得に貢献した[1]。同年の日本・キューバ国際野球大会でも日本代表に選出されている。1985年都市対抗でも日本石油の四番として活躍。

現役時代 編集

ヤクルト・スワローズ時代 編集

同年のプロ野球ドラフト会議ヤクルトスワローズに2位指名され入団。

1987年には開幕直後から一番打者として起用される。同年は初めて規定打席に達し、打率.301(リーグ10位)を記録。セントラル・リーグ最優秀新人に選出された[1]

1988年はシーズン中盤に故障し9月まで欠場、栗山英樹に一番打者の座を奪われる。

1989年には復活、三番打者としても42試合に起用される。

1991年は故障で低迷する。5月25日中日ドラゴンズ戦は、千葉マリンスタジアムで初めて行われたプロ野球の試合であったが、この試合の5回裏に荒井は中日・小松辰雄から右翼線に大きな当たりを放ち、ダイビングキャッチを試みた右翼手マーク・ライアルが打球を見失っているうちに長駆生還。同球場初の本塁打は荒井のランニング本塁打だった。

1992年7月5日に行われた読売ジャイアンツ戦(明治神宮野球場)で、同点の9回裏、1死満塁で荒井が代打で登場した際、タイムをかけた野村克也監督に球審が気づかず、苛立った野村に帰り際にネクストバッターズサークルで頭を叩かれたとされる事件があった(いわゆる「荒井ポカリ事件」として有名。当時、世間的には荒井が初球スクイズのサインに戸惑っていたためだとされた)。後に野村は「あの時は冷静さを欠いていた」として荒井に謝罪している。ただし野村没後の2023年になって笘篠賢治が明かしたところによると、その時マウンドにいた相手投手の癖を見抜いた笘篠と秦真司が、片方が声を出したら直球、もう片方なら変化球と合図を決め、荒井は代打に向かう直前に、どちらがどっちか最終確認するためにベンチに戻った。それを集中力に欠いていると勘違いした野村が「集中せい!」と手持ちのメガホンでポカリと叩いてしまったのが真相であった。野村は事情を知らないまま没したという[2]西武との日本シリーズでは全7試合に左翼手、二番打者として出場、20打数5安打であった。

1993年は打率.291(9位)を記録した。同年の西武との日本シリーズでは第5戦に潮崎哲也から本塁打を放った。

1994年のシーズン前半までレギュラーを守るが、その後は秦真司らに定位置を奪われる。

近鉄バファローズ時代 編集

1996年木下文信との交換トレード小坂勝仁とともに近鉄バファローズへ移籍、ここでは指名打者としても起用される。

横浜ベイスターズ時代 編集

1998年無償トレードにより横浜ベイスターズへ移籍し、代打の切り札として日本一に貢献。

1999年、前年に続き代打の切り札として起用。4月27日広島東洋カープ戦では代打として出場し、通算1000試合出場を達成した(荒井はこのとき三振に倒れており、三振しながら球場職員から花束を受け取るシーンはこの年の「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」に多用された)。

2000年に現役を引退。

現役引退後 編集

2001年からコーチとしてヤクルトに復帰。

2007年までヤクルト二軍打撃コーチ。

2008年2009年北海道日本ハムファイターズ二軍打撃コーチ。

2010年から5年間読売ジャイアンツの二軍打撃コーチを務めた。その後はジャイアンツ・アカデミーのコーチを2021年3月末まで務めた[3]

アカデミーコーチ時代より、プロ入り前の古巣・ENEOS野球部の外部打撃コーチを務めており[4]度会隆輝らを指導した[5]

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1986 ヤクルト 12 21 21 1 6 2 0 0 8 2 0 0 0 0 0 0 0 5 1 .286 .286 .381 .667
1987 105 409 372 52 112 22 2 9 165 38 2 3 3 0 31 2 3 31 4 .301 .360 .444 .803
1988 70 269 252 31 67 16 3 6 107 25 2 5 3 0 12 0 2 18 0 .266 .305 .425 .729
1989 110 367 323 36 88 14 3 4 120 38 7 3 2 6 36 0 0 24 6 .272 .340 .372 .711
1990 119 457 412 55 116 21 1 8 163 38 3 1 0 3 40 2 2 38 1 .282 .346 .396 .741
1991 65 197 162 18 36 2 1 4 52 14 1 4 9 1 25 1 0 15 4 .222 .324 .321 .645
1992 93 273 230 32 58 6 2 5 83 25 4 0 6 0 37 1 0 27 6 .252 .356 .361 .717
1993 106 409 357 45 104 15 2 9 150 35 1 2 9 3 36 1 4 47 6 .291 .360 .420 .780
1994 105 369 314 26 84 23 1 2 115 15 2 1 9 2 41 1 3 41 4 .268 .356 .366 .722
1995 62 203 174 16 44 10 2 2 64 11 4 1 6 1 22 1 0 17 1 .253 .335 .368 .703
1996 近鉄 80 194 171 21 38 7 0 5 60 23 8 0 6 0 17 2 0 22 5 .222 .293 .351 .643
1997 13 20 15 1 5 1 0 0 6 4 0 0 1 3 1 0 0 1 0 .333 .316 .400 .716
1998 横浜 50 50 46 7 12 1 0 1 16 5 0 0 0 0 4 1 0 10 1 .261 .320 .348 .668
1999 51 49 43 2 12 5 0 0 17 3 0 0 0 0 6 0 0 3 0 .279 .367 .395 .763
2000 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
通算:15年 1042 3288 2893 343 782 145 17 55 1126 276 34 20 54 19 308 12 14 299 39 .270 .341 .389 .731

表彰 編集

記録 編集

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号 編集

  • 10 (1986年 - 1995年)
  • 31 (1996年 - 1997年)
  • 60 (1998年 - 2000年)
  • 74 (2001年 - 2007年)
  • 83 (2008年 - 2009年)
  • 87 (2010年 - 2012年)
  • 84 (2013年 - 2014年)

脚注 編集

  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、20ページ
  2. ^ https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/10/12/kiji/20231012s00001173530000c.html
  3. ^ コーチ人事について」『読売ジャイアンツ(巨人軍)公式サイト』2021年4月2日。2024年2月20日閲覧
  4. ^ 巨人・中田翔、300本塁打の礎は荒井幸雄氏直伝のカーブ打ち」『サンスポ』2023年8月8日。2024年2月20日閲覧
  5. ^ DeNA・度会 ENEOS時代のコーチで元ヤクルトの荒井幸雄さんと再会 「ずっとお世話になった方」」『Sponichi Annex』2024年2月19日。2024年2月20日閲覧

関連項目 編集

外部リンク 編集