莫宣宗

大越莫朝4代皇帝。憲宗の長男

莫宣宗(ばくせんそう、マク・トゥエントン、ベトナム語Mạc Tuyên Tông / 莫宣宗)は、莫朝大越の第4代皇帝。名は莫 福源(マク・フック・グエン、ベトナム語Mạc Phúc Nguyên / 莫福源)、または莫 宏(マク・ホアン・ドゥク、ベトナム語Mạc Hoành Dực / 莫宏瀷[1]とも。

宣宗 莫福源
莫朝
第4代皇帝
莫宣宗像(ハイアン区ダンラム坊)
王朝 莫朝
在位期間 1546年 - 1564年
姓・諱 莫福源(莫宏
諡号 睿皇帝
英毅皇帝
廟号 宣宗
生年 不詳
没年 光宝10年2月7日
1564年2月18日
憲宗
后妃 武皇后
元号 永定 : 1547年 - 1548年
景暦 : 1548年 - 1555年
光宝 : 1555年 - 1564年

生涯 編集

憲宗の長男。広和6年5月8日1546年6月5日)に父帝が崩御すると即位し[2][3]、翌年に永定と改元した。大叔父の弘王莫正中中国語版が泗陽侯范子儀ベトナム語版や阮如桂らに擁立されて御天県中国語版(現在のフンハ県)で皇帝を称すると、謙王莫敬典中国語版と西郡公阮敬ベトナム語版に命じて討伐させたが敗北し、海陽や安広一帯を劫掠されるなどその跳梁を許した。景暦2年(1549年)には宣宗は都の昇龍から逃亡している[4]。景暦4年(1551年)に莫敬典が范子儀を捕えて殺害すると莫正中はに逃亡した[4]。その間隙を突いて後黎朝の平安王鄭松が莫朝の将軍である奉国公黎伯驪ベトナム語版を抱き込み、武文密中国語版と黎伯驪率いる軍勢が昇龍に侵攻してくると、宣宗は金城県に逃亡した[4]。都総帥として昇龍を守った叔父の莫敬典が後黎朝の軍を撃退し、その後は膠着状態が続いた。

光宝10年2月7日1564年2月18日)、により崩御[5]。子の莫茂洽が帝位を継いだ(英祖中国語版)。

出典 編集

  1. ^ 明史』巻三百二十一 列伝二百九 外国二 安南
  2. ^ 大越史記全書』本紀続編巻之十六 黎皇朝紀 荘宗裕皇帝
  3. ^ ベトナム史略』第2巻 自治の時代 第2章 南北朝
  4. ^ a b c 『大越史記全書』本紀続編巻之十六 黎皇朝紀 中宗武皇帝
  5. ^ 大越通史中国語版』逆臣伝 莫福源伝
先代
憲宗
莫朝の第4代皇帝
1546年 - 1564年
次代
英祖