蕭 子響(しょう しきょう、泰始5年(469年)- 永明8年8月27日[1]490年9月26日))は、南朝斉皇族。巴東王、魚復侯。武帝蕭賾の四男。は雲音。

経歴 編集

蕭賾と張淑妃のあいだの子として生まれた。豫章王蕭嶷に子がなかったため、子響は蕭嶷の養子となった。後に蕭嶷に実子が生まれたが、嫡子としてとどめられた。武帝が即位すると、輔国将軍・南彭城臨淮二郡太守となった。子響は膂力にすぐれ、4斛の弓を引いた。たびたび竹樹の下を駆け回って、怪我ひとつ負うことがなかった。車服の制は諸王に劣っていたため、入朝するたびに怒って、拳で車壁を撃った。武帝はこれを知って、車服を皇子たちと同じにさせた。

永明3年(485年)、右衛将軍に転じた。使持節・都督豫州郢州之西陽司州之汝南二郡諸軍事・冠軍将軍・豫州刺史として出向した。永明4年(486年)、右将軍に進んだ。都督南豫州之歴陽淮南潁川汝陽四郡諸軍事を加えられた。入朝して散騎常侍・右衛将軍となった。永明6年(488年)3月、巴東郡王に封じられた。永明7年(489年)2月、中護軍に転じた。3月、江州刺史として出向した。12月、使持節・都督荊湘雍梁寧南北秦七州諸軍事・鎮軍将軍・荊州刺史に転じた。

子響はひそかに錦袍を作らせ、少数民族と武器を交易していた。永明8年(490年)、長史の劉寅らが連名で密告したため、武帝は調査させるために使者を送った。子響が劉寅・江悆らを殺したため、武帝は胡諧之尹略茹法亮らに武装兵数百人を与えて江陵に向かわせた。胡諧之らは江津に到着すると、燕尾洲に築城した。子響は下手に出て官軍を供応しようとしたが、胡諧之らはこれを疑って子響の官吏を捕らえた。子響は2000人を率いて霊渓から西に渡河し、官軍と長江南岸で対陣した。翌日に決戦して官軍を撃破し、尹略を戦死させた。胡諧之らは敗軍を率いて撤退した。武帝が丹陽尹の蕭順之を向かわせると、子響の部下たちは恐れて逃散した。子響は白服で降り、死を賜った。享年は22。追って蛸氏の姓を与えられ、爵位は魚復侯に降格された。

脚注 編集

  1. ^ 『南斉書』巻3, 武帝紀 永明八年八月壬辰条による。

伝記資料 編集