藤原兼家

日本の平安時代の公卿

藤原 兼家(ふじわら の かねいえ)は、平安時代中期の公卿藤原北家右大臣藤原師輔の三男。官位従一位摂政関白太政大臣

 
藤原 兼家
時代 平安時代中期
生誕 延長7年(929年
死没 永祚2年7月2日990年7月26日
改名 兼家→如実(法号)
戒名 法興院
官位 従一位摂政関白太政大臣
主君 村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 藤原北家九条流
父母 父:藤原師輔、母:藤原盛子藤原経邦の娘)
養父:藤原忠平
兄弟 伊尹兼通安子兼家遠量忠君遠基遠度登子源高明室、高光
愛宮為光尋禅深覚公季怤子繁子源重信
藤原時姫藤原中正娘)、藤原道綱母藤原倫寧娘)、保子内親王村上天皇皇女)、中将御息所藤原懐忠娘?)、権の北の方(藤原忠幹娘)、源兼忠娘、対御方藤原国章娘)
道隆超子道綱、道綱母養女、道兼 詮子道義道長綏子兼俊
特記
事項
一条三条天皇の外祖父
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東三条院跡、藤原兼家邸、京都市中京区押小路通釜座西北角

概要 編集

藤原摂関家の三男の家に生まれながら、兄・兼通との確執、同族の小野宮流との後宮争い、策略による花山天皇の廃位などを経て、摂関家の嫡流としての地位を確立。以後、摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重された。

室の1人には『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる。

経歴 編集

長兄からの厚遇 編集

童殿上の後、天暦2年(948年)に従五位下に叙され、翌天暦3年(949年)には昇殿を許された。義兄の村上天皇の時代には左京大夫春宮亮を兼ねた。

康保4年(967年)、甥の冷泉天皇の即位に伴い、同母の次兄・兼通に代わって蔵人頭となり、左近衛中将を兼ねた。翌安和元年(968年)には兼通を超えて従三位に叙され、さらに翌安和2年(969年)には参議を経ずに中納言となる。蔵人頭とは通常、四位の官とされて辞任時に参議に昇進するものとされていた。しかし、兼家は従三位に達し、更に中納言就任直後までその職に留まった。これは、長兄・伊尹の政権基盤確立のための宮中掌握政策の一翼を兼家が担っていたからだと考えられ、安和の変に兼家が関与していたとする説の根拠とされている。

その後、娘・超子を入内させるのを黙認してもらえただけでなく、天禄3年(972年)には正三位大納言に引き立てられ、更に右近衛大将按察使を兼ねる等、摂政となった伊尹により引き続き重用されたが、この過程で次兄・兼通と官位が逆転し、冷遇された兼通との確執の原因となった。

次兄との確執 編集

同年、重病の伊尹が辞表を提出すると、翌日には参内した兼家と兼通は後任の関白職を望むあまり円融天皇の御前で口論し出した。結局、兼通から「関白は、宜しく兄弟相及ぶべし(順番に)」との円融天皇の生母・安子の遺言を献じられた天皇は、孝心厚く遺言に従い、兼通の内覧を許し、次いで関白となした(『大鏡』[注釈 1])。

兼家を恨んでいた兼通の時代になると、兼家は一転して不遇の時代を過ごす。長女・超子と冷泉上皇との間には居貞親王(後の三条天皇)が生まれたが、次女・詮子まで円融天皇の女御に入れようとするも、一段と兼通から疎んじられて円融天皇への讒言に遭い、退けられた。そのうえ昇進も止められてしまう。『栄花物語』によれば兼通は「できることなら九州にでも遷してやりたいものだが、罪が無いので出来ない」と発言している。

貞元2年(977年)、兼通は重態に陥って伏して、余命いくばくもなくなった時、ようやく天下が近づいた兼家は、禁裏へ参内した。兼家の車列を、見舞いに来たかと思い待っていた兼通は、自邸の門前を素通りしたのを知ると激怒し、病身をおして参内して最後の除目を行う。兼通が後継の関白に指名したのは、近親の中でも長老であった従兄の藤原頼忠であった。そして、兼家の右大将・按察使の職を奪い、治部卿に格下げした。ほどなく、兼通は薨御した。余計な怒りを買った兼家は長歌を献上して失意の程を円融天皇に伝えたが、天皇からは「稲舟の」と、しばらく待つように、との意の返歌を受けたという。

復権 編集

後任の関白の頼忠から、天元元年(979年)に右大臣に進められた兼家は、廟堂に復権された。また、翌年には父の遺志を継いで天台座主良源と共に延暦寺横川恵心院を建立している。

かねて望んでいた詮子の入内もかない、懐仁親王(後の一条天皇)に恵まれた。詮子を中宮に立てることを望む兼家だったが、天元5年(982年)、頼忠の娘・遵子を中宮となした円融天皇に失望して、以後、詮子、懐仁親王共々東三條殿の邸宅に引き籠ってしまった。さらに、憂慮した円融天皇による東三條への使いに対し、ろくに返答もしない有様だった。

永観2年(984年)7月、相撲節会を懐仁親王に見せたいと望む円融天皇からの、参内の求めに、兼家は病と称して応じない。なおも天皇から使者を送られたため、兼家はやむなく参内した。そこで天皇から「朕は在位して16年になり、位を東宮(師貞親王・冷泉天皇皇子で、後の花山天皇)に譲りたいと思っていた。その後は懐仁を東宮にするつもりだ。朕の心を知らずに不平を持っているようだが、残念だ」と諭された兼家は、はなはだ喜んだ。

約束通り、同年8月に円融天皇が譲位、花山天皇が即位し、懐仁親王が東宮に立てられた。兼家は関白を望むが、一族の長老であった頼忠が引き続き在任し、更に甥(長兄伊尹の遺子)の藤原義懐が、天皇の伯父の資格で権中納言にまで昇進、朝政を主導するようになり、権力は複雑化する。

しかしほどなく、花山天皇は寵愛していた女御・藤原忯子が急死、絶望して世を棄てることさえ言い出していた。兼家一派はこの間隙を突き、兼家の三男・道兼の手引きで花山天皇を宮中から連れ出し、山科元慶寺で天皇を出家させ、退位に追い込んだ。出し抜かれた形の義懐も後を追って出家し、失脚した(寛和の変)。

策略は成功し、懐仁親王が即位した(一条天皇)。兼家は天皇の外戚となり摂政・氏長者となる。天皇の外祖父が摂政に就任するのは、人臣最初の摂政となった藤原良房清和天皇外祖父)以来であった。

ところが、当時右大臣であった兼家の上官には前関白の太政大臣頼忠と左大臣源雅信がいた。特に雅信は円融天皇の時代から一上の職務を務め、法皇となった円融の信頼を背景に太政官に大きな影響力を与えていた。さらに頼忠も雅信も皇位継承可能な有力皇族との外戚関係がなかったために、謀叛などの罪を着せて排斥することも出来なかった。そこで兼家はこの年に従一位准三宮の待遇を受けると共に右大臣を辞して、初めて前職大臣身分(大臣と兼官しない)の摂政となった。右大臣を辞した兼家は頼忠・雅信の下僚の地位を脱却し、准三宮として他の全ての人臣よりも上位の地位を保障されたのである。また、一条天皇を本来は一氏族である藤原氏の氏神に過ぎない春日社へ行幸させたり、道隆や道長ら自分の子弟を公卿に抜擢し、弁官を全て自派に差し替えるといった強引な人事を行ったり、自邸東三条殿の一部を内裏の清涼殿に模して建て替えたりして、自流の地位を他の公家とは隔絶したものに高めた。その一方で有能な人材の登用、官僚機構再生のため新制の発布、梅宮祭吉田祭北野祭公祭と定めて主催の神社を国家祭祀の対象として加え後の二十二社制度の基礎を作るといった、一条朝における政治的安定にも貢献した。

永祚元年(989年)、円融法皇の反対を押し切って長男・道隆を内大臣に任命して、律令制史上初めての「大臣4人制」を実現させ、更にこの年に頼忠が薨去すると、その後任の太政大臣に就任した。翌永祚2年(990年)の一条天皇元服に際しては加冠役を務める。これを機に関白に任じられるも、僅か3日で病気を理由に嫡男・道隆に関白を譲って出家、如実と号して別邸の二条京極殿を「法興院」という寺院に改めて居住したが、その2ヶ月後に病没した。享年62。

後に兼家の家系は大いに栄え、五男・道長の時に全盛を迎える。

兼家は左中弁藤原在国、右中弁・平惟仲を信任し、「まろの左右の目である」と称した。また、高名な武士の源頼光が兼家に仕え、名馬30頭を献上をしている。打伏神子(うちふしのみこ)を甚だ信じ、動静全て彼女の言葉に従ったともいう。

略系図
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藤原忠平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
九条流
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
実頼
 
 
 
 
 
師輔
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼忠
 
 
 
 
 
伊尹
 
兼通
 
村上天皇女御安子
 
兼家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
円融天皇中宮遵子
 
公任
 
冷泉天皇女御懐子
 
義懐
 
冷泉天皇憲平親王
 
円融天皇守平親王
 
道隆
 
冷泉天皇女御超子
 
道兼
 
円融天皇女御詮子
 
道長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小野宮流
 
花山天皇師貞親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中関白家
 
三条天皇居貞親王
 
 
 
 
 
一条天皇懐仁親王
 
御堂流
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
〔現皇室〕
 
 
 
 

官歴 編集

『公卿補任』による。

系譜 編集

関連作品 編集

小説
映画
テレビドラマ

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ ただし、安子の死は伊尹が摂関の地位に就けるかも不透明な時期であり、遺言の内容もそこまで具体的なものではなく中宮権大夫として尽くしてくれた兄・兼通の重用を求めたもので、結果的には中宮安子と近侍することなかった弟・兼家には不利に働いたとする見方もある[1]。また、伊尹や兼家は安子の長男であった冷泉天皇の庇護には積極的であったが、他の子供達(為平親王や後に円融天皇となる守平親王、選子内親王ら)に対してはそれ程ではなく、彼らを庇護したのは兼通であったことから、即位後の円融天皇は兼通を外戚として依拠するようになったとする見方もある[2]
  2. ^ 作中では召人と表現される。

出典 編集

  1. ^ 倉本一宏「藤原兼通の政権獲得過程」(所収:笹山晴生 編『日本律令制の展開』(吉川弘文館2003年ISBN 978-4-642-02393-1
  2. ^ 栗山圭子「兼通政権の前提-外戚と後見」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年)ISBN 978-4-750-34481-2
  3. ^ a b 『日本古典文学全集 栄花物語』さまざまなよろこび第四十九段[注釈 2]

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集