裕禄(ゆうろく、ユル、満洲語: ᡞᠣᡞᠯᡠ、転写:ioilu[1]1844年? - 1900年)は、末の官僚・軍人。寿山満州正白旗人。ヒタラ氏(hitara hala、喜塔臘氏)。湖北巡撫崇綸の子。

裕禄

経歴 編集

熱河兵備道、安徽布政使を経て、同治13年(1874年)に30歳の若さで安徽巡撫となった。以後も両江総督湖広総督盛京将軍、四川総督を歴任。盛京将軍在任中の光緒15年(1889年)には熱河の金丹道教の蜂起を鎮圧している。光緒24年(1898年)、軍機大臣・礼部尚書・総理各国事務衙門大臣に任命後、栄禄(ルンル)と交代する形で直隷総督となった。

直隷総督として勢力を拡大してきた義和団を当初は弾圧しようとしたが、やがて利用する姿勢を取った。光緒26年(1900年)、義和団の乱八カ国連合軍天津を陥落させると、清軍が勝利したとの虚偽の報告を行って、敗残兵を率いて北倉に退いた。8月に楊村にまで逃れ、そこで服毒自殺した。

先代
呉元炳
安徽巡撫
1874年 - 1884年
次代
盧士杰
先代
左宗棠
両江総督
1884年
次代
曽国荃
先代
卞宝第
湖広総督
1885年 - 1889年
次代
張之洞
先代
慶裕(キンユ)
盛京将軍
1889年 - 1895年
次代
イクタンガ(依克唐阿)
先代
李秉衡
四川総督
1897年 - 1898年
次代
奎俊(クイジュン)
先代
懐塔布(フワイタブ)
礼部満尚書
1898年
次代
啓秀(キシュ)
先代
栄禄(ルンル)
直隷総督
1898年 - 1900年
次代
李鴻章

脚注 編集