西域都護(せいいきとご、さいいきとご)は、西域を統括した中国の官職である。

前漢宣帝地節2年(紀元前68年)、漢から西域に派遣されていた鄭吉車師を屈服させると、漢は鄭吉を「護鄯善以西南道」(西域南道の監督役)とした。

その後、宣帝の神爵3年(紀元前59年)に匈奴の日逐王を降伏させたことで、鄭吉は「護車師以西北道」にも併せて任じられ、西域の南北両道全てを統括することになり、「西域都護」(「都」は大きい、全て、という意味)と称されるようになった。これが西域都護の由来である。

西域都尉は加官であり、本官は騎都尉(秩禄比二千石)や諫大夫(秩禄比八百石)であった。副官として副校尉(秩禄比二千石)が置かれ、丞1人、司馬2人、候2人、千人2人が属した。西域の中央部である烏塁城に都護府を置き、西域36国を鎮撫し、諸国に号令をかけた。

後漢においては漢が西域への軍事的影響力を保持できず、しばしば廃止と設置を繰り返した。

歴代西域都護 編集

前漢 編集

  • 鄭吉(前59年 - 前48年)
  • 韓宣(前48年 - 前45年)
  • 甘延寿(前36年 - 前33年)
  • 段会宗(前33年 - 前30年)
  • 廉褒(前30年 - 前27年)
  • 韓立(? - 前22年)
  • 段会宗(前21年 - 前18年)…再任
  • 郭舜(前15年 - 前12年)
  • 孫建(前12年 - 前9年)
  • 但欽1年 - 13年)

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  • 但欽(1年 - 13年)- 反逆した焉耆によって攻め殺される。
  • 李崇(13年 - 23年

後漢 編集

注釈と出典 編集

注釈 編集

出典 編集

  • 班固顔師古注)『漢書』(巻19表第七 下百官公卿表下、巻70列伝第四十 傅常鄭甘陳段伝、列伝第六十 西域伝)
  • 范曄後漢書』(列伝第四十 班梁列伝第三十七、列伝第八十六 西域伝第七十八)

関連項目 編集