覚恕

日本の皇族、戦国時代の僧侶

覚恕(かくじょ)は、日本皇族戦国時代天台宗天台座主。父は後奈良天皇。母は壬生雅久の娘伊予局(三位局)、もしくは刑部卿和気親就の娘[注釈 1]

覚恕
続柄 後奈良天皇皇子

称号 金蓮院准后
身位 准三宮
出生 大永元年12月18日1522年1月25日[注釈 1]、もしくは永正12年(1515年[2]
死去 天正2年1月3日1574年1月25日
埋葬 曼殊院宮墓地
父親 後奈良天皇
母親 伊予局壬生雅久[注釈 2]の娘)、もしくは刑部卿和気親就の娘[注釈 1]
役職 曼殊院門跡 北野天満宮別当
天台座主
宗教 天台宗
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後世しばしば「覚恕親王」「覚恕法親王」と尊称されるが、実際には親王宣下を受けていない。正親町天皇の異母弟に当たるとされているが、実際には異母兄であるとみられる[注釈 3][2]

略歴 編集

後柏原天皇の皇子知仁親王(後奈良天皇)の皇子として生まれる。大永5年(1525年延暦寺の子院曼殊院門跡慈運を師として得度し、天文6年(1537年)慈運の死に伴い門跡と北野天満宮別当を相続。天文22年(1553年常陸千妙寺から住持亮珎を招き、台密三昧流の灌頂を受けている。弘治3年(1557年准三宮の宣下を受けて金蓮院准后と称された。永禄5年(1562年伏見宮から青蓮院に入っていた尊朝法親王の得度で戒和上を務めている。元亀元年(1570年)第166世天台座主に補任。

元亀2年(1571年9月12日織田信長による比叡山焼討ちに遭遇した。織田氏と対立する朝倉氏の軍兵を公然と匿ったことが原因とされる。覚恕は事件5日前の9月7日に参内して朝廷に相談(内容は不明)を持ち掛けており、2日後の重陽の節句にも参加している。そのため事件当日は在京しており難を逃れたが、根本中堂以下全山が攻撃され、比叡山は焦土となった。これにより程なく天台座主辞意を表明しているが、依然座主として扱われた。元亀3年(1572年)三塔執行代が武田氏へ比叡山再興を要請しているが、この仲介を行っている。一説に信玄身延山に延暦寺移転を計画したともいわれるが、いずれにしても叶うことはなかった。同年、覚恕の斡旋により信玄は権僧正に任じられている。

事件後は曼殊院に戻っていたようで、天正元年(1573年)朝廷内での行事に参列していることが窺える。同年末に発病し竹田定加の診療を受けるが、甲斐なく年明け早々に死去。門弟の青蓮院尊朝が天正12年(1584年)に補任されるまで天台座主は空位となった。比叡山の復興は信長の死後、尊朝や正親町天皇らの尽力により行われることになる。

青蓮院流の書をよくし、作に「真如堂供養弥陀表白」「金曼表白」がある。また和歌・連歌を好み、歌集に「覚恕百首」が残る。正親町天皇とは一貫して親しい関係であり、[独自研究?]永禄年間には誠仁親王の手習を担当している[3]

覚恕が登場したテレビドラマ 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ a b c 曼殊院蔵『門跡年譜』(編者未詳、明治初年に門跡制度が廃止される際に作製された上申書のひとつと考えられている)での記述[1]
  2. ^ 壬生晴富の子。
  3. ^ 三条西実隆の日記(『実隆公記』)には大永5年に11歳だったとあり、また中院通勝の日記(『継芥記』)には兄と記されているため、実際には永正12年(1515年)の生まれとみられる。

出典 編集

  1. ^ 赤瀬信吾「曼殊院相承新譜(翻刻)」『国語国文』第51巻第2号、中央図書出版社、1982年2月、88頁、NAID 40001290447 
  2. ^ a b 日本史史料研究会 編「第二章 信長の時代 戦国大名と宗教勢力との戦い 覚恕」『戦国僧侶列伝』 143巻、大塚紀弘、星海社、東京都文京区〈星海社新書〉、2018年11月27日、121-131頁。ISBN 978-4-06-511999-0 
  3. ^ 『御湯殿の上日記』[信頼性要検証]

参考文献 編集

関連項目 編集