賊軍

天皇(朝廷)に叛逆した軍勢

賊軍(ぞくぐん)とは、天皇朝廷)及び政府意思に叛逆し天皇朝廷政府より口頭、詔勅綸旨等の手段により討伐、鎮撫、もしくは宣戦布告を受けた勢力の保持する軍勢のこと。小規模の場合は「賊徒」とも書かれる。「官軍」の対語。

定義 編集

朝敵、逆賊、国賊などとほぼ同じ意味であるが、「朝敵」や「国賊」という言葉が、最少では一人でも成立する言葉であるのに対して、「賊軍」とは軍勢を率いて戦う規模の反乱で、国家転覆を企む意図を持ち得る部隊を指す。武装戦闘集団であり一揆とは異なる。平将門の様に賊軍の首魁(国賊)でありながら、神として奉られる場合もある(神田明神)。南北朝時代の場合は、南北両帝が並立しており、互いに相手側を「賊」と呼んでいた経緯もあるため、どちらの立場であったかで定義が異なる。対外戦争に関しては、白村江の合戦などにおける唐・新羅の連合軍は「賊軍」の範疇に含まれるが、開戦詔勅を伴わない豊臣秀吉朝鮮出兵の際の敵軍は「賊軍」の範疇に含まれない。同様に日本赤軍は追討の詔勅などが下されていない為、賊軍では無い[1]。嘉永6年以降の戦死者の場合は靖國神社の本殿に奉られているか否かで判別が可能である。

歴史 編集

  • 長髄彦(神武天皇即位前) -『日本書紀』では自己の正統性を主張するため互いに神璽を示し合ったが、それでも長髄彦が戦い続けたため饒速日命の手によって殺されたとされる。神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衙坂(くさかのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。その後、八十梟帥兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。日本書紀・神武紀には、この時の様子を次のように記している[2]
皇師(みいくさ)遂に長髄彦を撃(う)つ。連(しきり)に戦ひて取勝(か)つこと能(あた)はず。時に忽然(たちまち)にして天(ひ)陰(し)けて雨氷(ひさめ)ふる。乃ち金色(こがね)の霊(あや)しき鵄(とび)有りて、飛び来りて皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止れり。其の鵄(とび)光(ひか)り曄煜(てりかかや)きて、状(かたち)流電(いなびかり)の如し。是に由りて、長髄彦が軍卒(いくさのひとども)、皆迷ひ眩(まぎ)えて、復(また)力(きは)め戦はず。長髄(ながすね)は是(これ)邑(むら)の本(もと)の號(な)なり。因りて亦(また)以て人の名とす。皇軍(みいくさ)の、鵄の瑞(みつ)を得るに乃りて、時人(ときのひと)仍(よ)りて鵄邑(とびのむら)と號(なづ)く。今鳥見(とみ)と云ふは、是(これ)訛(よこなば)れるなり[2] — 岩波日本古典文学大系

長髄彦に率いられて戦った賊軍で後に帰順したのが、饒速日命を祖とする物部氏で、サムライを表す「もののふ」の言葉の語源となった氏族であるが、元々は賊軍の帰順者の末裔である。

外敵 編集

承久の変 編集

承久の変官軍は賊軍に敗北したため、以降朝廷は事実上、賊軍(幕府)に屈服する異常事態が続いた。幕府は朝廷を監視し、皇位継承も管理するようになり、朝廷は幕府をはばかって細大もらさず幕府に伺いを立てるようになった。院政の財政的基盤であった八条院領などの所領も一旦幕府に没収され、治天の管理下に戻されたあともその最終的な所有権は幕府に帰属した。承久の変には、鎌倉と京都の二元政治を終わらせて武家政権を確立する意義があったと考える学者もいる[10]

幕末 編集

当初「賊軍」に指定されていたのは、偽勅を乱発して孝明天皇の怒りを買い八月十八日の政変で駆逐され、それを不服として禁門の変で御所へ向けて発砲し侵入した長州藩であり、孝明天皇の命によって幕府を主体とする「官軍」による長州征伐が行われた。

しかし、第14代将軍徳川家茂の死去と孝明天皇の崩御による混乱が原因で第二次長州征伐が失敗に終わると、明治天皇の外戚中山忠能と通じていた長州藩は討幕派の岩倉具視と長州征伐の失敗に至る過程で幕府を見限っていた薩摩藩の工作により赦免され、また岩倉らによって製作されたいわゆる「討幕の密勅」(詔勅と称するが、その要件である御画可、御璽を欠き、太政官の主要構成員の署名が無い)を獲得した。第15代将軍徳川慶喜大政奉還を行ったことにより討幕の名分が失われると、討幕派は相楽総三天狗党残党に命じて江戸市中での強盗殺人を繰り返させて幕府を挑発した。そのため幕府は「君側の奸」である薩摩などを討伐するとして京都に向けて進軍し、慶應4年1月3日に江戸の薩摩藩邸を焼き討ちし、鳥羽・伏見で薩長軍との交戦を開始した(鳥羽・伏見の戦い)。この際に岩倉が以前に作らせておいた錦旗を朝廷から薩長軍に授与したことで、薩長軍が「官軍」、幕府軍が「賊軍」と認定されることになり、長州征伐の時と官・賊の関係が逆転した。

幕府軍が「賊軍」に認定された衝撃は大きく、その多くが戦意を喪失し、慶喜も幕府軍を置き去りにして6日に江戸へと逃亡した。鳥羽・伏見での幕府軍の崩壊を見た諸藩は、反薩長派・親薩長派を問わずその多くが幕府を見限り、朝廷に勤王証書を提出して薩長新政府へ恭順の意を示した。その後慶喜は江戸城を無血開城し降伏したが、これを不服とする旧幕府軍の一部との戦闘が発生し、また新政府により朝敵に指定された会津藩庄内藩(薩摩藩邸焼き討ちの主力)などは明治天皇への叛意は無いが薩長の要求に屈する謂れはないとして抗戦の構えを見せていた。新政府は仙台藩伊達慶邦ら奥羽諸大名に会津藩・庄内藩の討伐を命じたが、その際に奥州へ派遣された薩摩藩士大山綱良と長州藩士世良修蔵は仙台藩ら奥羽諸藩が仲介した会津藩の降伏条件を一蹴したうえ、世良が大山に宛てた「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」が発見されたことで、当初は「薩長が帝を擁している以上、その指示に従うことはやむを得ない」と判断していた仙台藩も世良を殺して諸藩(奥羽越列藩同盟)と共に新政府軍と戦争状態(戊辰戦争)に入った。最終的に土方歳三の戦死と榎本武揚の全面降伏によって戦争は集結し、東北諸藩は減封家老の処刑などと処罰された。

これら反薩長の諸勢力はみな幕府軍と同様に「賊軍」と認定された。

明治時代 編集

明治維新以降、今度は旧討幕派内での争いが勃発し西郷隆盛前原一誠らが不平士族を率いて叛乱を起こしたが、これも「賊軍」として鎮圧され、明治22年(1889年)に西郷が大赦で許されたのを皮切りに、大正時代が終わるまでに関係者の多くは名誉回復した。

昭和時代 編集

「勝てば官軍、負ければ賊軍」 編集

「勝てば官軍、負ければ賊軍」というがあり、「道理はどうあれ勝った側が正義である」という意味である。多くは幕末の長州藩を念頭に置いて語られる言葉のため、承久の変など始終一貫して「官軍」の地位にあった側が負けた例もあり、必ずしも勝った側が最終的に「官軍」として認定されるわけではない。また明治政府により「正統」とされた南朝から「賊軍」とされたが最終的な勝者となった足利尊氏とその子孫は、もともと北朝からすれば「官軍」「皇軍」であり、南北朝時代のような「官軍」対「官軍」という状況も場合によっては発生しうるものであった。

「官軍」が敗北した合戦 編集

脚注 編集

  1. ^ 官軍でも無い。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本書紀』
  3. ^ 『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年六月二十三日條
  4. ^ 『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年
  5. ^ 『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年八月二日條
  6. ^ 『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年十一月七日條
  7. ^ a b c d 『日本書紀』神武天皇即位前紀己未年二月二十日條
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本書紀』景行天皇12年條
  9. ^ 昭和19年(1944年)、戦争指導に行き詰まり、経済、社会の赤化に向う東條とその側近に代えて、予備役の皇道派将官を起用すべきと奏した近衛文麿に対し、昭和天皇木戸内大臣を通じて次のように論駁している。「第一、真崎は参謀次長の際、国内改革案のごときものを得意になりて示す。そのなかに国家社会主義ならざるべからずという字句がありて、訂正を求めたることあり。また彼の教育総監時代の方針により養成せられし者が、今日の共産主義的という中堅将校なり。第二、柳川は二・二六直前まで第1師団長たりしも、幕下将校の蠢動を遂に抑うこと能わざりき。ただ彼は良き参謀あれば仕事を為すを得べきも、力量は方面軍司令官迄の人物にあらざるか。第三、小畑は陸軍大学校長の折、満井佐吉をつかむことを得ず。作戦家として見るべきもの有るも、軍司令官程度の人物ならん。以上これらの点につき、近衛は研究しありや否や」(『木戸幸一日記』)
  10. ^ 鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史』新人物往来社

参考文献 編集

関連項目 編集