趙 烈文(ちょう れつぶん、Zhao Liewen1832年 - 1894年)は、曽国藩の幕僚。恵甫または偉甫

江蘇省常州府陽湖県出身。名家の出で先祖の趙申僑康熙年間に戸部尚書を務めた。若くして文名を知られたが、省試を三度受けて三度とも落第した。

1855年12月、曽国藩が南昌太平天国軍に苦戦していたときに、同郷の周騰虎の推薦で趙烈文は曽国藩の幕府に入った。その日に樟樹鎮に駐屯する湘軍を見たが、「陸軍の士気が弛緩しており、頼りになるか心もとない」と指摘した。果たしてしばらく後に樟樹鎮の部隊は大敗を喫した。

1864年曽国荃が太平天国の都の南京を陥落させた際、趙烈文も居合わせており、『能静居士日記』に当時の様子を以下のように記して、湘軍の屠城(都市住民の皆殺し)を告発している。「・・・沿道に転がる死者は10人のうち9人が老人である。また幼児も戯れに刀でたたき殺され路上に放置されている。40歳以下の女性は1人も見かけない。傷のない老人はなく、十余刀、数十刀の刀傷があった・・・」

また趙烈文は独特の見解を持っていた。1867年6月20日(グレゴリウス暦では7月21日)、曽国藩との対話で「清朝を揺るがす禍がおき、地方は分裂してしまうことになる。そのような事態は50年以内に起きるだろう」と述べた。曽国藩は「皇帝陛下に徳があれば、そのようなことにはならないのではないか」と反論したが、烈文は「清朝は(李自成を滅ぼした後に、呉三桂の手引きで山海関に入り)やすやすと天下を奪い、(揚州嘉定など)各地で虐殺をおこなった。善悪は互いに補うものではないので、後世の君主の徳は頼りになるものではない」と述べた。つまり清朝の正統性に疑義をはさんだのであった。

著書には『能静居士日記』のほか、『趙偉甫先生庚申避乱日記』『落花春雨巣日記』がある。

趙烈文を扱った研究書として、浅沼かおり『趙烈文のみた清末の中国社会』(吉田書店、2021年)がある。