輔仁親王

平安時代の皇族。後三条天皇の三男。親王、無品

輔仁親王(すけひとしんのう、延久5年1月19日1073年2月28日) - 元永2年11月28日1119年12月31日))は、平安時代皇族後三条天皇の第三皇子。母は源基平の娘基子。異母兄に白河天皇、同母兄に実仁親王がいる。

輔仁親王
続柄 第71代 後三条天皇の第3皇子

身位 親王、無品
敬称 殿下
出生 延久5年1月19日1073年2月28日
日本の旗 日本山城国
死去 元永2年11月28日1119年12月31日
日本の旗 日本山城国
配偶者 源政長
  源師忠
  源行宗
  素性不詳
子女 信証
有仁王
守子女王
仁子女王
怡子女王
行恵
仁操
父親 後三条天皇(第71代天皇
母親 源基子三条源氏 源基平の娘)
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経歴 編集

父・後三条天皇は、藤原北家閑院流の血を引く長男の貞仁親王(白河天皇)よりも、女御源基子(摂関家に冷遇された三条源氏の系譜)との間に生まれた、藤原氏と外戚関係を有しない皇子に皇位継承候補者として期待をかけていた。そこで1072年(延久4年)に白河天皇の即位に際して実仁親王を皇太弟とし、さらに翌年の輔仁誕生直後、上皇となっていた後三条が重態に陥ると、重ねて実仁親王が即位した後には、輔仁親王を皇太弟とするよう遺言した。しかし、1085年(応徳2年)に実仁が亡くなると、白河天皇は翌年には父の遺言を無視、実子である善仁親王を皇太子に立て、その日のうちに皇太子への譲位を宣言して堀河天皇を即位させた。

1075年(承保2年)親王宣下1087年(寛治元年)に祖母陽明門院の御所である室町第で元服加冠藤原実季理髪源道良が務める。だが、異母兄白河上皇からは冷遇され、品位も与えられなかった。その後1103年(康和5年)堀河天皇の第一皇子宗仁親王が誕生、1107年(嘉承2年)宗仁親王が鳥羽天皇として即位したが、朝廷内では依然として輔仁親王への期待が高い状態であった[1]。そのような状況の中で輔仁親王は仁和寺のあたりに幽居したが、1113年(永久元年)に輔仁親王の護持僧である醍醐寺仁寛らによる輔仁親王即位にからむ計画(永久の変)にまきこまれて皇位継承の可能性が絶たれ、自ら2年間の閉門生活を送っている[2]。この事件の後も白河法皇に警戒され、元永2年(1119年)憂悶のうちに薨去したとされているが、その一方で白河院は有仁王猶子として遇し、鳥羽天皇の皇子誕生後の元永2年に有仁が臣籍降下した直後に公卿に列せさせて以後もこれを庇護する(最終的には左大臣に至る)など、硬軟両面の対応をしている。

同母兄の実仁親王とともに、兄弟揃って英明の資質を備えていたと言われている。また、詩歌に秀で、風雅の士として知られていた。漢詩文では、博学多才を謳われ左大臣に昇った醍醐天皇の皇子兼明親王と並び称される[3]ほどであり、『本朝無題詩』の25首、『新撰朗詠集』の5首が現在まで伝わっている。和歌においては、『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に17首が入集している。親王の没後、白河法皇が源俊頼に命じて『金葉和歌集』を編纂させた際に、親王の歌を9首採用したが、そこに「輔仁の親王」と書かれていたのを見た白河法皇が「三宮」と書き改めさせたとの話が伝わっている[3][注釈 1]

系図 編集

 
 
 
71 後三条天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
72 白河天皇
 
実仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
輔仁親王
 
篤子内親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
73 堀河天皇
 
覚行法親王
 
覚法法親王
 
媞子内親王
(郁芳門院)
 
源有仁
(有仁王)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
74 鳥羽天皇
 
最雲法親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
75 崇徳天皇
 
77 後白河天皇
 
76 近衛天皇
 
 
 
 
 
 
 

妃・王子女 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ ただし、この部分については、白河法皇を憚って親王に対する否定的意味合いで諱を表記したのを法皇が不当な扱いと考えて止めさせたという解釈と白河法皇の警戒対象であった親王を賞賛して特別扱いする意味合いで諱を表記したのを法皇が嫌って止めさせたという解釈の2種類が存在する[4]海野泰男は『続本朝通鑑』と同様に前者の説を取るとする[4]

出典 編集

  1. ^ 「天下帰心於三宮」『台記』康治元年5月16日条
  2. ^ 百練抄』永久元年10月22日条
  3. ^ a b 今鏡』309段
  4. ^ a b 海野泰男『今鏡全釈 下』福武書店、1983年、P302.