近衛 家通(このえ いえみち)は、鎌倉時代前期の公卿関白近衛家実の長男。官位正二位左大臣

 
近衞家通
時代 鎌倉時代前期
生誕 元久元年(1204年
死没 貞応3年8月11日1224年9月25日
別名 号:猪隈、近衛左大臣[1]
官位 正二位左大臣
主君 順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇
氏族 近衞家
父母 父:近衛家実、母:藤原季信の娘
兄弟 家通家輔兼経長子鷹司兼平、実静、慈禅、増忠、聖兼、聖実、澄誉
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来歴 編集

建保2年(1214年)4月9日、元服して正五位下に初叙。後鳥羽上皇より馬を賜り、昇殿禁色を聴されると、2日後に侍従、7月に右近衛少将、次いで9月に右近衛中将、10月に従四位下、12月に正四位下に叙せられ、摂家の嫡男として急速に出世した。建保3年(1215年)正月に12歳にして従三位に叙せられ公卿に列し、美作権守を兼ねる。同年8月に権中納言に進み12月に正三位に叙せられた。

建保4年(1216年)従二位、建保5年(1217年)に正二位に叙せられる。建保6年(1218年)正月に権大納言に任じられるが、8月に母の死去により服解、10月に復任し、12月に内大臣に昇進した。建保7年(1219年)左近衛大将を兼任、3月には右大臣に任じられ、10月に左馬寮御監に補任。

承久3年(1221年)10月に承久の乱のとばちりで九条道家が失脚すると、翌閏10月10日に後任の左大臣に任じられる。貞応3年(1224年)8月6日より痢病を患い、11日に大臣在任のまま21歳で薨御[2]。最終官位は正二位左大臣兼左近衛大将だった。

人物 編集

閑麗な顔立ちであったが、和漢の才に頗る乏しく、不柔和で寛宥の法が無かったという[2]

官歴 編集

※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 建保2年(1214年
    • 4月9日:正五位下に叙し、昇殿・禁色を聴す(今日元服す)。
    • 4月11日:侍従に任ず。
    • 7月27日:右近衛少将に任ず。
    • 9月14日:右近衛中将に転ず。
    • 10月28日:従四位下に叙す。
    • 11月16日:更に昇殿・禁色を聴す。
    • 12月1日:正四位下に叙す。
  • 建保3年(1215年
    • 正月5日:従三位に叙す。右中将如元。
    • 正月13日:美作権守を兼ぬ。
    • 8月12日:権中納言に任ず。右中将如元。
    • 12月15日:正三位に叙す。
  • 建保4年(1216年)7月16日:従二位に叙す。
  • 建保5年(1217年)4月9日:正二位に叙す。
  • 建保6年(1218年
    • 正月13日:権大納言に任ず。
    • 3月1日:勅授帯剣を仰せらる。
    • 8月20日:喪に服す(母)。
    • 10月16日:復任す。
    • 12月2日:内大臣に任ず。
  • 建保7年(1219年)/承久元年
    • 閏2月25日:左近衛大将を兼ぬ。
    • 3月4日:右大臣に転ず。
    • 3月8日:左近衛大将如元。
    • 10月2日:左馬寮御監と為す。
  • 承久3年(1221年)閏10月10日:左大臣に転ず。左大将如元。
  • 貞応3年(1224年)8月11日:薨ず。享年21。

脚注 編集

  1. ^ 公卿補任貞応3年条。
  2. ^ a b 岡屋関白記貞応3年8月11日条。