遠交近攻

中国の兵法書『兵法三十六計』にある戦術のひとつ

遠交近攻(えんこうきんこう)は、兵法三十六計の第二十三計にあたる戦術。「とほきにまじはりちかきをむ」と訓読し、「遠い国と親しくし近くの国を攻略する」という意味。

概要 編集

中国戦国時代では諸国は絶えず戦争を続けていたが、多くの国々が分立していたため、一国を攻める場合には複数の国々が同盟を組み、攻める国を二正面戦争状態にさせ、一国を攻めた後に得られた戦果は分担するのが慣わしであった。遠方との緊密な連絡を確保するのが難しい前近代においては、通常その場合に同盟相手として選ばれるのは自国と隣接した国であった。しかし近隣の同盟国と共同して遠方の他国に攻め込み、そこから領地を得られたとしても、それは飛び地となってしまう場合が多い。このため領地の維持が難しく、結局はすぐまた領地を取り返されてしまっていた。中国は広大な大陸国家であるので、飛び地の領土経営・管理防衛は本国からでは非常に難しかったのである。

范雎は諸国を遊説し、はじめ大夫に仕えたが、異心があると疑われて、に逃れ、昭襄王に仕えて遠交近攻を説いた。すなわち、遠い国と同盟を組んで隣接した国を攻めれば、その国を滅ぼして領地としても本国から近いので防衛維持が容易である。この方策に感銘を受けた昭襄王は范雎を宰相にして国政を預けた。

遠いと同盟し、近いを攻めた秦は膨張を続け、やがて六国を平定して中国大陸の統一を成し遂げた。

このように遠くの相手と手を結んで近くの敵を片付ける政策を遠交近攻という。

関連項目 編集

第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争にてデンマークを撃破し、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題を「解決」したかに見えたプロイセン王国オーストリア帝国の連合軍だったが、割譲されたシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の管理権をめぐって対立した。
1939年9月1日ナチス・ドイツ軍(とその同盟軍であるスロバキア軍)が、続いて同年9月17日ソビエト連邦軍が、両国に挟まれたポーランド領内に侵攻。ポーランドは独ソ不可侵条約調印時に締結された秘密協定並びに同年9月28日ドイツ・ソビエト境界友好条約に基づき、分割占領された。