金容植

日本と韓国のサッカー選手

金 容植(きん ようしょく、朝鮮語: 김용식、キム・ヨンシク、1910年7月25日 - 1985年3月8日)は、サッカー選手、サッカー指導者。第二次世界大戦前は日本代表選手、戦後は韓国代表の選手、コーチ、監督を務めた。韓国サッカーの父と称されている。

金 容植
名前
本名 金 容植
カタカナ キム・ヨンシク
ラテン文字 KIM Yong Sik
基本情報
生年月日 1910年7月25日
大韓帝国信川
没年月日 (1985-03-08) 1985年3月8日(74歳没)
大韓民国の旗 韓国ソウル
身長 172cm[1]
体重 64.5kg[2]
選手情報
ポジション HB
ユース
1926-1929 儆新中学校
普成専門学校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1935 全京城蹴球団英語版
代表歴
1936-1940 日本の旗 日本 3 (0)
1945-1950 大韓民国の旗 韓国
監督歴
#指導歴参照
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

来歴 編集

本貫金海金氏[3]。1910年7月、黄海道信川の出身であり、父は牧師で比較的裕福な家庭であった[4]。なお、父は朝鮮神宮の参拝拒否などで何度も投獄されたことがあった。

7-8歳の頃からボールを蹴り始め[4]、13歳で京城府 (現在のソウル特別市)に引越した。1926年に儆新中学校に入学してからサッカーを本格的に始めた[5]。1929年の光州学生事件で金はデモの先頭に立って活動したことから警察の指名手配を受け、儆新中学校を退学処分となった[6]。1930年、金のサッカーの技量を見込んで京都府内の中学に入学したが約2ヶ月で退学し、その年の内に入学した普成専門学校(現在の高麗大学校)も退学して、儆新中学校への復学を希望したが復学は叶わなかった[6]。なお、1930年に「朝鮮私立専門陸上対抗」という陸上競技会に出場し、1500m5000mで優勝した。

1932年、普成専門学校に再入学。在学中の1935年に全京城蹴球団英語版のメンバーとして第15回全日本総合蹴球選手権大会 (現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝した。また、同年にはスピードスケート選手として全朝鮮大会に出場して1,500メートルと10,000メートルの2種目で優勝した[7]

1936年4月にベルリンオリンピックサッカー日本代表に選出された[2] が、普成専門学校の教授らの勧めもあり朝鮮から唯一の参加メンバーであった[8][9]。同年6月20日に東京を出発して、汽車を乗り継いで7月3日にベルリンに到着した[10]。7月27日のブラウヴァイス英語版戦で日本代表として初めて出場した[11]。オリンピック本戦でも後に「ベルリンの奇跡」と呼ばれるスウェーデン代表戦およびイタリア代表戦の2試合にスタメンで出場した[12]。ベルリン五輪後も紀元二千六百年奉祝東亜競技大会(1940年)などの大会に日本代表として出場した[1]

第二次世界大戦後は韓国代表となり、1948年ロンドンオリンピックでは韓国代表の選手兼コーチとして2試合に出場した。1952年10月に高麗大学校OBチームの一員として出場した試合を以て現役を引退した[13]

1954 FIFAワールドカップでは韓国代表コーチを務め、その後は国内クラブチームの監督などを歴任した。

1963年、第1回目となる大韓民国体育賞を受賞した[13]。1971年、退学処分を受けていた儆新中学校より名誉卒業生として証書を授与された[6]

1982年2月にハレルヤFCの監督として来日した[14]

1985年の死後には体育勲章猛虎章が授与された。2005年車範根フース・ヒディンクらと共に韓国サッカー名誉の殿堂入りし、ソウルワールドカップ競技場にあるワールドカップ記念館に胸像が飾られている。

所属クラブ 編集

代表歴 編集

出場大会 編集

試合数 編集

  • 国際Aマッチ 日本代表:3試合 0得点(1936-1940)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1936 2 0 2 1 4 1
1937 0 0 0 0 0 0
1938 0 0 1 0 1 0
1939 0 0 3 0 3 0
1940 1 0 2 0 3 0
1941 0 0 0 0 0 0
1942 0 0 4 1 4 1
通算 3 0 12 2 15 2

指導歴 編集

  • 1954年、1960年、1969年1月-10月-   韓国代表:監督 
  • 1968年 陽地:監督 
  • 1970年 信託銀行:監督 
  • 1980年-1982 ハレルヤFC:初代監督

脚注 編集

  1. ^ a b [1940.06.16 西宮・甲子園南運動場]”. 日本サッカー協会. 2015年3月18日閲覧。
  2. ^ a b 「オリムピックへ十六選手決定す」朝日新聞 (1936年4月23日) 2016年8月14日閲覧
  3. ^ (1)김해김씨” (朝鮮語). 중앙일보 (1982年1月1日). 2022年8月17日閲覧。
  4. ^ a b p.92
  5. ^ p.94
  6. ^ a b c p.95
  7. ^ p.98
  8. ^ p.103
  9. ^ なお、京城蹴球団からは金 (容植)以外に金永根が候補選手に選ばれていたが、同チームが「優勝せる朝鮮ティームに於いても個人的に優秀なるプレーヤーは僅に金永根、金容植等二、三の者を挙げるのみ」(『第11回オリンピック大会報告書』)と評価されたことに金永根は不満を示して代表チームの合宿に参加しなかった。
  10. ^ p.104
  11. ^ [1936.07.27ベルリン]”. 日本サッカー協会. 2015年3月18日閲覧。
  12. ^ [1936.08.04 ベルリン]”. 日本サッカー協会. 2015年3月18日閲覧。
  13. ^ a b p.113
  14. ^ 「「ハレルヤ」歓迎レセプション 日韓サッカーあすキックオフ」読売新聞 (1982年2月27日), 2016年8月14日閲覧

参考文献 編集

  • 鎌田忠良『日章旗とマラソン ベルリン・オリンピックの孫基禎講談社文庫、1988年8月。ISBN 406184265X 
  • 朴景浩、金徳起『日本は敵・JAPANは友 打倒日本を貫いた韓国サッカー百年恨の秘話』オークラ出版、2002年3月1日。ISBN 4872789148 

外部リンク 編集