金閣寺放火事件

1950年に日本の京都府京都市で発生した放火事件

金閣寺放火事件(きんかくじほうかじけん)は、1950年昭和25年)7月2日未明に、京都府京都市上京区(現・北区)金閣寺町にある鹿苑寺(通称・金閣寺)において発生した放火事件である。アプレゲール犯罪の一つとされた。

金閣寺放火事件
焼失直後の金閣舎利殿
場所 日本の旗 日本京都府京都市上京区(現・北区
座標 北緯35度2分21.85秒 東経135度43分45.71秒 / 北緯35.0394028度 東経135.7293639度 / 35.0394028; 135.7293639 (金閣寺放火事件)座標: 北緯35度2分21.85秒 東経135度43分45.71秒 / 北緯35.0394028度 東経135.7293639度 / 35.0394028; 135.7293639 (金閣寺放火事件)
日付 1950年昭和25年)7月2日
午前3時(逮捕は午後5時) (UTC+9)
標的 鹿苑寺の舎利殿(金閣)
攻撃手段 放火
死亡者 0人
負傷者 0人
行方不明者 0人
損害 舎利殿が全焼。足利義満の木像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻など文化財6点の焼失。
犯人 林承賢(本名・林養賢)
動機 #動機参照
テンプレートを表示

事件の経緯 編集

 
焼失する前の金閣(1893年
 
焼失する前の金閣(1905年
 
木造足利義満坐像

1950年7月2日午前3時、鹿苑寺から出火の第一報があり消防隊が駆けつけたが、その時には既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかった。当時の金閣寺には火災報知機が7箇所に備え付けられていたが、6月30日に報知機のためのバッテリーが焦げ付いていたため使い物にならなくなっていた。幸い人的被害はなかったが、国宝の舎利殿(金閣)46坪が全焼し、創建者である室町幕府3代将軍足利義満の木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻など文化財6点も焼失した。

鎮火後行われた現場検証では、普段火の気がないこと、寝具が付近に置かれていたことから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた。その結果、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(本名・林養賢、京都府舞鶴市成生出身、1929年3月19日生まれ)が行方不明であることが判明し捜索が行われた。夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中で薬物カルモチンを飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕された。林は救命処置により一命を取り留めている。

産業経済新聞記者・福田定一(後の作家・司馬遼太郎)は、この事件の取材にいち早く駆けつけた。

動機 編集

逮捕当初の取調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていた。しかし実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており僧侶よりも事務職が幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。

そのため、この複雑な感情を解き明かすべく多くの小説家により文学作品が創作された(詳細は後述)。一例として、三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、水上勉は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析した。

また、服役中に統合失調症(精神分裂病)の明らかな進行が見られたことから(後述)、彼を精神鑑定した医師である加藤によれば、事件発生当時既に統合失調症を発症しており、その症状が犯行の原因の一つになったのではないかという指摘もある[1][2]

その後 編集

事件後、林の母親は京都市警による事情聴取のため京都に呼び出され(禅宗の僧侶であった父親はすでに結核により他界)、捜査官から事件の顛末を聞くこととなったが、その衝撃を受けた様子から不穏なものを感じた警官は実弟を呼び寄せて付き添わせた。しかし、彼女は彼の実家がある大江[3]への帰途、山陰本線の列車から亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺した。

林の精神鑑定を行ったのは、後に国立京都病院精神科を設立し、医長となる加藤清である。1950年12月28日、林は京都地裁から懲役7年を言い渡されたのち、服役したが、服役中に結核と統合失調症が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院、1956年(昭和31年)3月7日に26歳で病死した。

親子の墓は親戚のいた舞鶴市安岡にあるが、墓は今も花が手向けられている。


再建 編集

 
再建後の金閣舎利殿

現在の金閣は国や京都府の支援および地元経済界などからの浄財により、事件から5年後の1955年に再建されたものである。金閣は明治時代に大修理が施されており、その際に詳細な図面が作成されていたことからきわめて忠実な再現が可能であった。

事件当時の寺関係者の回顧談等によると、焼失直前の旧金閣はほとんど金箔の剥げ落ちた簡素な風情で、現在のように金色に光る豪華なものではなかった。また修復の際に創建当時の古材を詳細に調査したところ金箔の痕跡が検出され、本来は外壁の全体が金で覆われていたとの有力な推論が得られたことから、再建にあたっては焼失直前の姿ではなく創建時の姿を再現するとの方針が採られた。

事件をテーマにした作品 編集

この事件を題材に、川端龍子が第22回青龍社展(1950年)で日本画の大作『金閣炎上』を発表している。大きな炎をあげて燃え上がる金閣を描いており、事件からわずか2か月後の発表である。東京国立近代美術館所蔵。

また京都市消防局の1950年10月の国宝防災週間のポスターの絵は堂本印象が描いた焼失後の金閣で、焼けた骨組みの木材だけの姿。

小説では三島由紀夫金閣寺』(1956年)や水上勉五番町夕霧楼』(1962年)が書かれた。

この2つの小説を原作とする映画が、前者は1958年1976年に、後者は1963年1980年に公開された。これらのうち、市川崑監督『炎上』(1958年)と田坂具隆監督『五番町夕霧楼』(1963年)は評価が高い(キネマ旬報ベストテン第4位と第3位)。

黛敏郎は三島由紀夫『金閣寺』をもとにオペラ『金閣寺』(1976年)を作曲している。

水上勉は舞鶴市で教員をしていたころ、実際に犯人と会っていると述べている[4]が、 第一稿では現実には面識の無かったことがはっきり書かれておりこれは創作である。水上が1979年に発表したノンフィクション『金閣炎上』は舞鶴の寒村・成生の禅宗寺院の子として生まれた犯人の生い立ちから事件の経緯、犯人の死まで事件の全貌を詳細に描いたもので、事件の経緯を知るための一次史料とされているが、関係者である村上慈海住職の人物像などあくまで水上の主観によるものでしかない記述も多い。

酒井順子の『金閣寺の燃やし方』(2010年)は三島由紀夫と水上勉の金閣についての作品を比較し論じている。

2020年には内海健が、三島由紀夫の『金閣寺』と水上勉の『金閣炎上』を結びつけて、精神医学者から見た当事件を扱う『金閣を焼かなければならぬ 林養賢と三島由紀夫』を発表し、大佛次郎賞を受賞している。

脚注 編集

  1. ^ 内海健『金閣を焼かねばならぬ 林養賢と三島由紀夫』河出書房新社、2020年6月20日、1-228頁。ISBN 978-4309254135 
  2. ^ 水上勉『金閣炎上』新潮社、1986年2月27日、1-347頁。ISBN 978-4101141190 
  3. ^ 現在の京都府福知山市大江町
  4. ^ 「六年前高野分教場にいたころ、青葉山うらで逢った中学生がやったのだ。帽子を阿弥陀にかぶった額ぎわのせまい男。私と滝谷の会話を聞き入っていた吃音少年だ。あの男が火をつけたか」

関連資料 編集

  • 文化庁編『新版 戦災等による焼失文化財 20世紀の文化財過去帳』、戎光祥出版、2003年

関連項目 編集

外部リンク 編集