長尾 頼景(ながお よりかげ)は、室町時代前期から中期にかけての武士越後国守護代越後長尾氏4代当主。

 
長尾頼景
時代 室町時代前期 - 中期
生誕 明徳元年(1390年)または応永7年(1400年
死没 文明元年9月1日1469年10月6日
別名 通称:弾正左衛門尉
戒名 意徳院通窓行永
官位 信濃
幕府 室町幕府 越後守護代
主君 上杉房朝房定
氏族 越後長尾氏
父母 父:長尾景房 母:上杉中務大輔の娘?
正室:山吉行盛娘・郁姫山吉久盛姉)
重景長尾景信正室、竹俣清忠正室
テンプレートを表示

略歴 編集

守護代を務めた長尾高景の末子・長尾景房の子として誕生。嫡流は頼景の伯父・長尾邦景が継いだため、景房・頼景父子は守護・上杉房朝に仕えた。ところが、宝徳元年(1449年)に上杉房定が守護になると房定と邦景が対立し、翌年には邦景が房定によって切腹に追い込まれ、これに憤慨した邦景の嫡男・実景が反乱を起こした。このため、房定は頼景と飯沼頼泰に命じてこれを討った。

邦景父子滅亡後、頼景は守護代に就任して飯沼頼泰・千坂定高と共に国政を掌握した。折りしも関東では、上杉氏古河公方足利成氏の間で享徳の乱が発生しており、文正元年(1466年)には関東管領山内上杉家の断絶により、急遽13歳の上杉顕定(房定の子)がその後継者となったために、実父である房定が上杉軍の事実上の総帥となって関東に留まった。そのために頼景が越後の留守を預かって政務を担当した。

玄孫景虎に至るまでの越後長尾氏の基礎を築いた人物といえる。