阿部 正寧(あべ まさやす)は、江戸時代後期の大名備後国福山藩の第6代藩主官位従五位下対馬守伊予守。阿部家宗家10代。

 
阿部正寧
阿部正寧像
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化6年10月24日1809年12月1日
死没 明治3年7月1日1870年7月28日
改名 正寧、不争斎(号)
戒名 常徳院寛譽主善元良
墓所 東京都台東区谷中
官位 従五位下対馬守伊予守
幕府 江戸幕府奏者番
主君 徳川家斉
備後福山藩
氏族 阿部氏
父母 阿部正精:井出氏
兄弟 正粹正寧正弘戸田忠温正室、井上正春正室、久世広周正室ら
正室鍋島斉直の娘・益子
側室:大河内氏
正教正方阿部正耆正室、松平直静養女、阿部正義正室ら
養子正弘
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生涯 編集

第5代藩主・阿部正精の3男として江戸藩邸にて誕生。兄の正粹が廃嫡されたため嫡子となり、文政9年(1826年)8月24日、18歳で家督を継ぐ。

天保2年(1831年)、奏者番に任じられたが、病気を理由に辞職した。藩政にも消極的で、福山藩は天保2年(1831年)に大洪水、その翌年の凶作、さらに天保7年(1836年)の大凶作に見舞われるが、特別な対策を講じないまま、同年に28歳で家督を弟の正弘に譲って隠居した。なお、天保2年には一揆の動きもあったが、これは事前に発覚し、首謀者は処断されている。

正寧は文化政策に対しても先代・正精のような熱心さはなく、「福府義倉」への援助もなくなった。ただ、自らは隠居後、不争斎と号して文筆に親しんだ。

正寧は隠居後40年近く生き、明治3年(1870年)7月1日に62歳で没している。弟の正弘、隠居後に儲けた長男の正教、三男の正方の以後3代の藩主は、その間に次々と死去している。戒名は常徳院寛譽主善元良。江戸浅草西福寺に葬られた。現在は東京都台東区谷中に墓所がある。

系譜 編集

阿部正寧が登場する作品 編集

漫画

外部リンク 編集