陳 寅恪(ちん いんかく、1890年7月3日 - 1969年10月7日)は、中華民国中華人民共和国歴史学者中国文学研究者、中国語学者。日中の律令を北斉書に押し上げた。

陳寅恪
人物情報
生誕 (1890-07-03) 1890年7月3日
湖南省長沙府長沙県
死没 1969年10月7日(1969-10-07)(79歳)
中華人民共和国の旗 中国 広東省広州市
出身校 復旦公学・弘文学院ベルリン大学
学問
研究分野 歴史学
研究機関 清華大学
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陳寅恪
各種表記
繁体字 陳寅恪
簡体字 陈寅恪
拼音 Chén Yínkè
ラテン字 Ch'en Yin-k'o
和名表記: ちん いんかく
発音転記: チェン・インコー
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経歴 編集

1890年、湖南省長沙府生まれ。祖籍は江西省南昌府義寧州(現在の九江市修水県)。幼少時に南京の家塾で学び、王伯沆に師事した。1902年、南京の礦路学堂を卒業した長兄の陳衡恪に従って日本に渡り、巣鴨弘文学院に入った。同期入学の中国人学生に、魯迅陳師曽などがいた。1905年に、足疾のために退学、帰国して、後に上海の復旦公学に入学した。1910年、公費留学生として、ドイツベルリン大学スイスチューリッヒ大学フランスパリ政治学院で学んだ。

第一次世界大戦が勃発すると、1914年に帰国した。1918年、江西省の公費援助官費を得て再度出国し、アメリカハーバード大学サンスクリットパーリ語を学んだ。1921年、ベルリン大学に戻り東方・中央アジアの古文字やモンゴル語を学んだ。同時に、留学期間を通じて、モンゴル語のほかチベット語満洲語日本語英語フランス語ドイツ語、および、パーリ語、ペルシア語突厥語西夏語ラテン語ギリシア語など10余りの言語について読解能力を獲得した。とりわけサンスクリットとパーリ語には精通していた。

1925年3月に帰国し、清華学校の招聘を受け、王国維梁啓超と共に国学研究院の導師となった。1928年、清華学校から改制された清華大学で中国語・歴史の二学系の教授に就任した。あわせて北京大学の授業も兼任した。彼がこの期間に主として講義したのは、仏教の翻訳文学、魏・南北朝の史料とモンゴル史料の研究などの課程であった。1930年以後は、中央研究院の理事、歴史語言研究所の研究員及び第一組(歴史)の主任、国立北平故宮博物院の理事、清代档案編委会の委員などの職を兼任した。

日中戦争の勃発後は、西南聯合大学で教鞭を執り、主として魏晋南北朝史、隋唐史、および元稹白居易の詩に関する研究などを講じた。1939年、イギリスのオックスフォード大学の中国史の教授に招聘され、1940年9月、昆明から香港へ行き、渡英の準備をするが、戦争によって渡航不能となってしまった。香港大学の客員教授に任じられ、中国文学系の主任となったが、1941年、香港が陥落し、香港大学は閉校されてしまった。1942年7月、桂林に赴き、広西大学で教鞭を執る。1943年12月には、成都に至り、燕京大学教授となる。

1946年、再度、清華大学の教授に任じられる。1948年広州嶺南大学へ移る。1952年、嶺南大学が中山大学に編入され、以後は中山大学の教授として、歴史系・中文系の講座で、両晋南北朝史、唐史、唐代の楽府などの課程を講義した。1960年7月、中央文史研究館の副館長に招聘される。文化大革命中、紅衛兵の打撃対象とされ、迫害を受け、長年かかって集めた所蔵の書籍と原稿が全て焼却された。1969年10月7日、広州で死去。

家族・親族 編集

  • 祖父:陳宝箴は湖南巡撫で変法派だったが、戊戌の政変で失脚した。死因は自尽させられた(戊戌の恨み、西太后の命令)。
  • 父:陳三立は有名な詩人で、三江師範学堂の総教席に任じられたこともあった。死因は餓死(日中戦争、七七)。

主な著作 編集

  • 陳寅恪魏晋南北朝史講演録
  • 隋唐制度淵源略論稿
  • 唐代政治史述論稿
  • 元白詩箋証稿
  • 金明館叢稿初編
  • 柳如是別傳

伝記 編集

  • 陸鍵東 『中国知識人の運命 陳寅恪最後の二十年』 平凡社、2001年
    荒井健・福田知可志・田口一郎・野原康宏訳