馮僕(ふう ぼく、550年 - 585年頃)は、南朝陳の人物。本貫長楽郡信都県北燕の第2代天王馮跋の従子の馮業(馮万泥の子)の玄孫。

経歴 編集

高涼郡太守の馮宝(羅州刺史の馮融の子)と洗夫人の子として生まれた。永定2年(558年)、嶺南の首領たちを率いて陳に入朝すると、陽春郡太守に任じられた。太建元年(569年)、広州刺史欧陽紇が反乱を計画し、馮僕を高安に召し出し、一緒に反乱をおこすよう説得した。馮僕は使者を国元に帰らせて母に知らせると、洗夫人は兵を動員して郡境を封鎖し、陳の将軍の章昭達を迎えて反乱討伐に協力した。馮僕は母の功により、信都侯に封じられ、平越中郎将の位を加えられ、石竜郡太守に転じた。

至徳年間に死去した。文帝のとき、崖州総管の位を追贈され、宋康郡公に追封された。

子女 編集

伝記資料 編集