高橋赳太郎

日本の剣道家

高橋 赳太郎(たかはし きゅうたろう、1859年安政6年〉7月 - 1940年昭和15年〉12月21日)は、日本剣道家流派無外流剣術津田一伝流剣術称号大日本武徳会剣道範士職業警察官高運

たかはし きゅうたろう

高橋 赳太郎
生誕 1859年7月
播磨国
死没 1940年12月21日
国籍 日本の旗 日本
別名 :高運
出身校 好古堂
職業 警察官
流派 無外流津田一伝流
肩書き 大日本武徳会剣道範士
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生涯 編集

生い立ち 編集

高橋家は代々酒井家に仕えた武士である。赳太郎は1859年安政6年)、姫路藩剣術指南役高橋哲夫武成の長男として、姫路大手前藩邸で生まれた。哲夫は無外流剣術(高橋派)、自鏡流居合津田一伝流剣術の師範として、藩校好古堂」で武術を指南し、自邸にも膺懲舎(ようちょうしゃ)という道場を開いていた。

1864年文久4年)、数え年6歳の赳太郎は父から剣術修行を命じられ、膺懲舎で稽古を開始する。倒れれば冬でも井戸へ連れて行かれ、水を浴びせられる厳しさであった。8歳からはこの稽古のほかに、藩校で学問武芸大太刀流剣術新陰流剣術堤宝山流柔術大坪流馬術)を学んだ。

明治維新によって、哲夫は藩の師範を解任される。道場は続けたが、近代化政策の影響で門人は去っていき、父子だけでの稽古となった。1876年(明治9年)、18歳の赳太郎は、父から無外流剣術と津田一伝流剣術の免許を与えられた。この年に父が亡くなり、祖父の高橋八助成行に師事する。

1878年(明治11年)3月、20歳で無外流奥伝を伝授されると、武者修行の旅を決意するが、当時の政府は剣術を禁じており、京都では国事犯嫌疑者とされるほどであった。一計を案じた赳太郎は、曲戯(見世物)の名目で剣術修行をすることを思いつき、当時の兵庫県権令森岡昌純に「曲戯業願」を出す。認可を得て、同年4月に出発し、近畿中国地方の各県を数ヶ月間かけて回った。大阪鏡新明智流道場「学習館」を開いていた秋山多吉郎の元にも数日滞在した記録が残っている。京都だけは断念したという。

警察で修行 編集

帰郷後、兵庫県臨時雇巡査大阪府四等巡査に採用される。1883年(明治16年)、高知撃剣興行一座が大阪に遠征に来た際、赳太郎は川崎善三郎(無外流土方派)と対戦する。審判は秋山多吉郎であった。なかなか決着がつかず、組討ちにもつれ込む。秋山が「死ぬまでやれ」と励ます中、ついに二人は意識を失い、気が付いたときは二人並んで氷枕に寝かされていた。その3年後、赳太郎は兵庫県巡査教習所武術教員となる。

1887年(明治20年)年明けに上京し、警視庁撃剣世話掛の採用試験を受けて合格した。審査員は上田馬之助逸見宗助らであった。雪が積もる中、裸足で蜂谷松造と野試合をさせられた後、道場に案内され、真貝忠篤得能関四郎兼松直廉渡辺楽之助など当時の代表的剣客十数名と試合をした。この試験は息つく暇もない厳しいものであったという[注釈 1]。同時期に採用された人物に、川崎善三郎と高野佐三郎中西派一刀流[注釈 2])がおり、赳太郎と合わせて「三郎三傑」と謳われた。

1888年(明治21年)、宮内省済寧館天覧試合に出場。上田馬之助逸見宗助の試合を見る。上田は4余の長竹刀青眼に、逸見は1尺7の小刀を上段に構え、双方とも技を出せず試合を終えた。気で戦った試合に赳太郎は強い感銘を受けたという。

1889年(明治22年)4月、兵庫に戻り、再び神戸警察署撃剣教師、巡査教習所武術教員となる。1895年(明治28年)には、道場「知進館」を開き、剣術・柔術を教授する。同年、日清戦争広島大本営で開かれた天覧試合に出場し、京都の井沢守正に勝っている。

大日本武徳会 編集

1896年(明治29年)、大日本武徳会から当時最高の表彰である精錬証を授与される。

1911年(明治44年)、高野、川崎らと共に大日本帝国剣道形制定の委員に選ばれる。

1919年大正8年)、大日本武徳会から剣道範士号を授与される。

1924年(大正13年)、宮内省皇宮警察部主催の済寧館台覧試合門奈正と対戦する。互いに一度も技を出せず、引き分けとなった。技を超えた達人同士の試合と評される。

1929年昭和4年)、御大礼記念天覧武道大会審判員を務める。

1940年(昭和15年)、死去。享年81。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 赳太郎は次のように述懐している。
    明治二十年頃の警視庁には鬼総監といわれた三島通庸氏が居られ梶川上田逸見得能などの大先生を始めとし、有名な剣客は殆んど此処に集まって居りました。当時の警視庁は有馬屋敷跡にありまして、之を訪ねて上京した次第を述べました処、先方では田舎から出て来た若者の心を試すつもりか、道場の前の雪が四、五寸降りつもっている庭で、折から警視庁に来合せて居りました蜂谷松造と試合をさせられました。此の蜂谷という人は大阪の曽根崎警察署に居って警視庁にて修行するため滞在して居りました。当時道具竹刀をかついで警視庁の門をくぐって無事昼の食事を済まして帰れば一人前だと言われた位稽古の烈しい処でした。この蜂谷との試合には上田、逸見などの先生方が立会われましたが、中々「それまで」と言われない、雪の中のこととて前後進退など足さばきが至って悪く意に任せない。足の感覚など勿論なく、ともすれば倒れそうになるが私もまだ二十代の血気盛んな時でしたし、神戸を出る時の寺田警察部長の言葉を思い出せば、これしきのことに弱ってどうするものかと元気を出して無事に試合を済ましました。此の雪中試合が済むと道場へ案内されて真貝、得能、兼松、渡辺などという警視庁で指折りの使い手十数人の方を相手として稽古を願いましたが、之等の剣客が代る代るに稽古に出られるので息つく暇もなく而も遠慮会釈のない使い振りでした。之も漸く済まして別室で昼飯の御馳走に預りましたが、何事もなく食べられました。此の時の雪中試合のみは未だに忘れません[1]
  2. ^ 中西派一刀流自身は、流名を小野派一刀流としており、高野も小野派を名乗っている。

出典 編集

  1. ^ 警視庁警務部教養課編『警視庁武道九十年史』418-419頁

参考文献 編集

外部リンク 編集