鷹司信輔

日本の公爵、貴族院議員、明治神宮宮司、鳥類学者。日本鳥学会会長。皇太子傅育官。鷹司熙通の長子。正五位、帝都復興記念章。鷹司家26代

鷹司 信輔(たかつかさ のぶすけ、1889年明治22年〉4月29日 - 1959年昭和34年〉2月1日)は日本公爵貴族院議員、明治神宮宮司鳥類学者日本鳥学会会長。「鳥の公爵」「小鳥公爵」と呼ばれた。

鷹司信輔
たかつかさ のぶすけ
生年月日 1889年4月29日
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市麹町区
(現東京都千代田区
没年月日 (1959-02-01) 1959年2月1日(69歳没)
出身校 東京帝国大学理科大学動物学科卒業(現東京大学理学部
前職 皇子傅育官
称号 帝都復興記念章
正五位
配偶者 鷹司綏子
子女 子・鷹司平通
親族 父・鷹司煕通(貴族院議員)
義父・徳川家達(貴族院議長)
義兄・徳川家正(貴族院議長)
義弟・松平康昌(貴族院議員)

在任期間 1918年6月10日 - 1947年5月2日
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生涯 編集

 
家族とともに(1949年)

公爵で陸軍少将鷹司熙通(のち大正天皇侍従長)の長子として、東京市麹町区に生まれる。幼時は昆虫採集を好んだが、やがて鳥類に関心が移る。

1901年高師附属小1906年高師附属中を卒業後、学習院高等科に進み、鳥類学を志すようになる。1911年東京帝国大学理科大学動物学科に入学、飯島魁教授に師事。1912年、飯島および兄弟弟子の黒田長禮内田清之助と共に日本鳥学会を設立、会頭に飯島教授を戴く。

大学卒業後、一度は大学院に入るも、1915年秩父宮および高松宮の皇子傅育官に任ぜられて中退。父の死去に伴って、1918年6月10日、公爵を襲爵し[1]、同日、貴族院公爵議員となる[2]。公務の傍ら鳥の研究も続けた。目黒に4万円を投じて禽舎を作り、インコだけでも変種70種、300羽を作った[3]1917年、初の著書『飼ひ鳥』を上梓。同年、鳥類飼育愛好家の会である「鳥の会」を設立、のち会長となる。1922年、飯島の死去に伴って日本鳥学会第2代会頭に就任(-1946年)。

1924年ベルギーで開かれた万国議員商事会議参列のため渡欧、1年半をヨーロッパで過ごす。大英博物館に通い、鳥三昧の日々を過ごした。

1932年、日本で絶滅した品種のサクライギリスから逆輸入されたことを受けて「タイハク(太白)」と命名。1935年から華族会館館長、1940年から日本出版文化協会会長。1943年理学博士号を取得。1944年明治神宮宮司となる。1946年神社本庁統理に就任。翌1947年日本国憲法施行に伴って華族制度が廃止された。その後、公職追放となった[4]

1959年2月、肝臓癌で没す、享年69。未刊行の原稿約1万枚が遺された。

栄典 編集

家族 編集

四弟の鷹司信敬は養魚家、堺市立水族館長。妻の綏子は公爵徳川家達の次女。息子は鉄道研究家の鷹司平通(妻は昭和天皇三女和子)。長女・幸子は清閑寺経泰に、次女・章子は松平乗武に、三女・量子は宇治家彦に、四女・庸子は浅野長愛に、五女・光子は住友融に嫁いだ。伊勢神宮大宮司鷹司尚武は孫(次女・章子の長男、平通の養子となる)。

著作 編集

  • 飼ひ鳥 裳華房 1917
  • 小鳥の飼ひ方 大日本百科全集 第8 誠文堂 1927
  • 鳥物語 興文社 1929 (小学生全集
  • 着色図編飼鳥集成 養賢堂 1930
  • 鳥と暮して 千歳書房 1943
  • 『鳥と暮して』「全集日本野鳥記7」、講談社、1986

脚注 編集

  1. ^ 『官報』第1756号、大正7年6月11日。
  2. ^ 『官報』第1759号、大正7年6月14日。
  3. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、249頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  4. ^ 公職追放の該当事項は「日本出版文化協会会長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、631頁。NDLJP:1276156 
  5. ^ 『官報』第241号「叙任及辞令」1913年5月21日。
  6. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

関連項目 編集

日本の爵位
先代
鷹司熙通
公爵
鷹司家第2代
1918年 - 1947年
次代
華族制度廃止