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猪苗代城(いなわしろじょう)は福島県耶麻郡猪苗代町にある日本の城。別名、亀ヶ城。福島県指定史跡[1]

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猪苗代城
福島県
猪苗代城の大手口
猪苗代城の大手口
別名 亀ヶ城
天守構造 平山城
築城主 猪苗代経連
築城年 鎌倉時代初期?
主な城主 猪苗代氏
廃城年 1868年(慶応4年)
遺構 曲輪跡、堀跡、土塁跡・石垣
指定文化財 県指定史跡
位置 北緯37度33分43.1秒
東経140度06分14.0秒
地図
猪苗代城の位置(福島県内)
猪苗代城
猪苗代城

目次

歴史・沿革編集

中世編集

猪苗代城の築城については、奥州合戦によって会津を与えられた相模国御家人佐原義連の孫・経連鎌倉時代初期に築いたといわれているが、真偽は不明である。ただ、経連の子孫は代々猪苗代氏を名乗り、地頭として一帯を治めていたため、その過程において築城されたのは間違いないであろう。ちなみに会津盆地を治めていた蘆名氏佐原義連の血統で、猪苗代氏とは同族である。猪苗代氏は本家・蘆名氏に対しては、反逆と従属を何度も繰り返し、最終的には、天正17年(1589年)の摺上原の戦いの直前に、当時の当主・猪苗代盛国伊達政宗に内応し、蘆名氏を滅亡に追い込むこととなった。豊臣秀吉奥州仕置によって伊達氏が会津を離れると、盛国も猪苗代を離れ、約400年にも及ぶ猪苗代氏の支配が終焉した。

近世編集

その後、会津領主は蒲生氏郷上杉景勝蒲生秀行蒲生忠郷加藤嘉明加藤明成と続くが、猪苗代城は会津領の重要拠点として、江戸幕府一国一城令発布の際もその例外として存続が認められ、それぞれの家中の有力家臣が城代として差し置かれていた。寛永20年(1643年)に保科正之会津藩主となると、猪苗代城には城代が置かれ、また、正之の死後はその墓所(正之は城の北、土津神社に葬られた)の守護という重要な役目も担った。

幕末編集

慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際、母成峠の戦いで西軍(薩摩藩長州藩など)が東軍(会津藩新撰組など)を破って、会津領へ侵入すると、当時の城代・高橋権大夫は城を焼き払って若松へ撤退し、建物は全て失われ、ここに猪苗代城の城としての役割は終わった。

近現代編集

戊辰戦争後、猪苗代城跡地は荒廃したままの状態だったが、明治38年(1905年)に町内の有志が日露戦争の戦勝記念としてを植樹し、その後、公園として整備され、現在も春になると、花見でおおいに賑わっている。また、野口英世は幼少時代に城跡でたびたび友人と遊んでいたという。平成13年(2001年)に城跡は「猪苗代城跡 附鶴峰城跡」として福島県指定史跡に指定された。

構造編集

猪苗代城は、街の中心部の小高い丘に築かれた平山城で南北250メートル、東西200メートル、比高差30メートルの規模をもつ。現在は、本丸・二の郭・帯郭・石垣土塁・空堀が残り、保存状態が比較的良好である。構造は、丘の最上部の平坦地が本丸で周囲は土塁で囲まれており、その南側の一段下がったところが二の郭、さらに南に下ったところに南帯郭、本丸北と西の一段下った箇所に北帯郭と西帯郭がある。大手口は城の東麓部分で、ここには石垣を利用した巨大な枡形虎口が造られている。なお、この大手口の石垣穴太積(あのうづみ)という技法が用いられていることから、蒲生氏によって造営されたと思われる。

城周辺編集

鶴峰城編集

猪苗代城の北西の丘陵は鶴峰城と呼ばれる城跡である。土塁や空堀、石塁等の遺構が残されている。史料から推察すると、猪苗代氏の隠居城として用いられたと思われる。猪苗代城が近世以降も城として使用されたために、近世城郭へ改変されているのに比べ、鶴峰城は猪苗代氏が去った後は廃城となったため、戦国時代の城郭の構造をそのまま現在に伝えている。

脚注編集

参考文献編集

  • 会津大事典(国書刊行会)
  • 歴春ブックレット20 会津の城(歴史春秋社)
  • 湖育む(猪苗代の自然と歴史・文化を考える会)

関連項目編集