獄門

江戸時代に庶民に科されていた6種類の死刑の一つ

獄門(ごくもん)とは、江戸時代に庶民に科されていた6種類の死刑の一つ。

概要編集

斬首刑の後、死体を試し斬りに使い、刎ねた首は獄門台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒しものにする公開処刑刑罰梟首(きょうしゅ)、晒し首ともいう。付加刑として財産は没収され、死体の埋葬や弔いも許されなかった。

こうした刑罰は平安時代後期から存在し、平安京の左右にあった獄の門前に斬首された罪人を晒した事が「獄門」の語源であると言われている。また当時は斬首した首をただ晒すだけでなく、で貫いて京中の大路を練り歩くことも行われたという。以後も同様の刑罰は存在したが、本格的に刑法体系に取り入れたのは江戸幕府であったとされている。

獄門の刑罰を科される犯罪は、強盗殺人、主人の親類の殺害、地主家主の殺害、偽のの製造などであった。また獄門に市中引き回しが付与されることもあった(“市中引き回しの上打首獄門”。獄門が晒し首を意味するので、これに更に「晒し首」と追加するのは誤り)。

 
日本国内で最後に梟示(獄門)された女性の判決文の一部。
名前は稲イシ(当時48歳女性)で、罪状は、夫(梅吉)の不倫を疑い、このままでは自分を殺害し不倫相手と結ばれてしまうと思い込み、夫婦喧嘩をきっかけに、就寝中に13カ所の傷を負わせ刺殺したことである。この罪状により、1878年(明治11年)10月3日に梟示判決が下され、同月14日に執行された[1][2][3]。執行の82日後に梟示が廃止されている[4]

明治に至っても初期にはきょうじ)と名を改めて引き続き行われていた。1871年明治4年)、明治政府を激しく批判していた旧・米沢藩士雲井龍雄や、1874年明治7年)佐賀の乱の首謀者の一人である前・参議司法卿江藤新平への処刑が有名である。また、江戸の刑法を元に作られた仮刑律で梟示の対象となる犯罪は、強盗殺人や強制性交殺人・身内関係者と雇い先の主人への殺人だけでなく、死傷を伴わない強盗や身内関係者や雇先の主人の母又は妻への強制性交、雇先の主人に対する傷害脱獄、金銭や政府公印偽造と人の命を奪わない犯罪も引き続き対象となった。しかし、1870年明治3年)12月に発布された「新律綱領」より、殺人のみと制限される形となり、1873年明治6年6月13日に制定された改定律例も引き続き殺人のみとなり、主に身内関係者の殺人に対して、適用された[5]

そして、1878年明治11年)6月「梟示の刑を廃するの件」という議題のもと、元老院会議が開かれる。更に、この会議を開くにあたり提出された意見書は河野敏鎌によるものであり、河野は前述の江藤新平に対し、当時内務卿であった大久保利通の意に沿うように私刑に近い形で裁判長として梟示の判決をした人物である。また河野はこの意見書を提出する以前に、死刑執行方法を絞首刑に限定するよう意見書を出している。この会議により梟示の廃止が認められ、1879年(明治12年)1月4日の明治12年太政官布告第1号[6]により廃止された。廃止された背景には、欧米列強に対抗する為に中央集権国家を形成していく過程で刑罰の公開刑を廃止する必要に迫られたこと、為政者・知識人の間で大量の鮮血を伴う斬首刑に対する嫌悪感と公開刑の一般予防効果に対する疑問が生じていたことである[5]

元老院会議が開かれてから、廃止に至るまでの間に、不倫を疑い、このままでは自分を殺害し不倫相手と結ばれてしまうと思い込み、更には当時質屋を営んでいた稲夫婦の取り立て相手であり不倫相手と思い込んでいる女性の夫である小島竹蔵にそうであるかにように吹き込まれ、夫婦喧嘩をきっかけに就寝中の夫を包丁山刀で13カ所の傷を負わせ殺害した稲イシが静岡市内で10月14日に執行され、静岡市内の安倍川湖畔で斬首された首を晒され、日本国内で最後に梟首(獄門)された女囚となった[1][2][3]。その4日後に、代言人(弁護士の前身)の免許を取得するために東京での勉学費用を得ようと刀を武装した状態で、この年の5月12日23時に他人の家に忍び寄り、忍び寄った家の夫婦と長女を殺害し、次女に傷害を負わせた罪で、林平次に対して梟首の判決が下されている[7]

なお、斬首刑自体は1882年(明治15年)1月1日に施行された旧・刑法により廃止されるまで残る。

梟首を伴わない斬首が最後に行われたのは、少なくとも当時の法に適法であった状態では、山田浅右衛門による執行の場合は、1881年(明治14年)7月27日市ヶ谷監獄にて強盗目的で一家4人を殺害した岩尾竹次郎川口国蔵の2人の死刑執行である[8]。また、府県史料で確認出来る限り、日本法制史上最後の斬首刑(少なくとも当時の法に適法である)の判決が下されたのは、鳥取県で同年12月30日に下された徳田徹夫(罪状:徳田を含む6人組により1880年(明治13年)12月21日から翌年1月21日の約1か月の間に4件の侵入強盗を起こし、4件目の侵入強盗の際、家主の母を殺害)である[9]。更に、判決では除族(士族の身分を剥奪すること)も付加されている。

そして、事実であるか定かではないが、旧・刑法施行後の1886年(明治19年)12月に「青森の亭主殺し」事件の加害者である小山内スミと小野長之助の公開斬首刑が青森県弘前市青森監獄前で行われたのが、最後であるとも言われている。このことが事実である場合、この2人の死刑執行は事実上の斬首刑の最後であると共に、官憲による日本国内における一般刑法犯に対する最後の非合法(当時の旧・刑法では、非公開絞首刑のみ)の死刑執行かつ公開処刑であると言わざるを得なくなる[10]

「梟首」の由来編集

中国では、(ふくろう)は親鳥を殺して食べる鳥と信じられており、親不孝、不義の象徴と見られていた。そのため、梟を殺して、斬首し、に吊るすという習俗があり[11]、転じて、首を斬ること、首を晒すことを「梟首」と呼ぶようになった。また、「梟」という漢字も、「木に吊るされる鳥」を表している[11]

獄門台編集

首を晒す台を獄門台といい、高さ6(下部を土に埋めるので実際には4(1.2メートル))の台に五寸釘を二本下から打ち、ここに首を差し込んで周りを粘土で固める。は首が盗まれたり野犬の類が持っていかないようを被せ、数名の非人が火を焚いて、不眠の番をした。獄門台の横には罪状を書いた捨札(すてふだ)が立てられた。時代劇台詞で「3尺高い木の上に載る事に~」と言う場合があったが、1尺分の高さが不足している表現だった。「木の上」は獄門台が木造だった事に由来する。

獄門(明治初期は梟首)による死刑執行数編集

1875年(明治8年)~1878年(明治11年)の罪名別梟首数
殺傷を伴う強盗 殺人(身内関係者以外) 身内関係者による殺人 身内関係者による傷害致死 不倫相手による殺人 一家3人以上の殺人 合計
1875年(明治8年)[12] 1 3 8 1 0 0 13
1876年(明治9年)[12] 0 0 6 0 1 0 7
1877年(明治10年)[13] 1 2 7 0 0 0 10
1878年(明治11年)[14] 0 2 10 0 0 8 20

注:身内関係者に養子縁組により親子関係になったものを含む(1875年は不明。 1876年は3人[15] 、1877年は2人、1878年は1人)。

脚注編集

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  1. ^ a b 静岡県史料刊行会 (1969), 所刑書類, 明治初期静岡県史料, 3, 静岡県立中央図書館葵文庫, pp. 630-635, doi:10.11501/3016891, NCID BN01798314 
  2. ^ a b 静岡県, 駿河国史 第3輯 材料 処刑書類(明治11‐14年)(118-124コマ目), 国立公文書館, https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/result?DEF_XSL=detail&IS_KIND=detail&DB_ID=G9100001EXTERNAL&GRP_ID=G9100001&IS_TAG_S16=eadid&IS_KEY_S16=M2007041211392351053&IS_LGC_S16=AND&IS_EXTSCH=F2009121017025600406%2BF2005022412244001427%2BF2005031812272303110%2BF2007041211384651004&IS_ORG_ID=M2007041211392351053&IS_STYLE=default&IS_SORT_FLD=sort.tror%2Csort.refc&IS_SORT_KND=asc 
  3. ^ a b “駿州駿東群竹ノ下村の・・・” (日本語). 読売新聞朝刊: pp. 2. (1878年10月17日) 
  4. ^ 司法省 (1878年). “司法省第四刑事統計年報 第二部 犯罪者年齡刑名身分教育 第九號 常事犯者ノ年齡及處斷 (コマ番号67)”. 2021年8月29日閲覧。
  5. ^ a b 松永寛明「公開刑廃止の社会的要因」『犯罪社会学研究』第25巻、日本犯罪社会学会、2000年、 86-102頁、 doi:10.20621/jjscrim.25.0_86ISSN 0386-460XNAID 1100027799602021年6月1日閲覧。
  6. ^ 太政官 (1879). “第一号 名例律五刑条例ニ関スル件(86コマ)” (日本語). 太政官布告 自明治十一年至明治十二年 (第七). doi:10.11501/2938268. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2938268/86 2021年7月25日閲覧。. 
  7. ^ 山口県, 山口県史料 政治之部 刑罰5(明治5‐17年)(10-13コマ目), 国立公文書館, https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/result?DEF_XSL=detail&IS_KIND=detail&DB_ID=G9100001EXTERNAL&GRP_ID=G9100001&IS_TAG_S16=eadid&IS_KEY_S16=M2007041211522652097&IS_LGC_S16=AND&IS_TAG_S1=all&IS_KEY_S1=%E5%BA%9C%E7%9C%8C%E5%8F%B2%E6%96%99%E3%80%80%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%9C%8C&IS_MAP_S1=&IS_LGC_S1=&IS_EXTSCH=F2009121017025600406%2BF2005022412244001427%2BF2005031812272303110%2BF2007041211521752085&IS_ORG_ID=M2007041211522652097&IS_STYLE=default&IS_SORT_FLD=sort.tror%2Csort.refc&IS_SORT_KND=asc 
  8. ^ 山下 恒夫 『明治東京犯罪暦 明治元年~明治23年』東京法経学院出版、1988年4月1日、148 - 155頁。ISBN 4-8089-4438-3NCID BN02158260 
  9. ^ 鳥取県 (1881) (JPEG,PDF). 鳥取県史(鳥取県歴史) 政治部(明治14年)(27-32コマ) (Report). 国立公文書館. https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/result?DEF_XSL=detail&IS_KIND=detail&DB_ID=G9100001EXTERNAL&GRP_ID=G9100001&IS_TAG_S16=eadid&IS_KEY_S16=M2007041211501551922&IS_LGC_S16=AND&IS_TAG_S1=all&IS_KEY_S1=%E9%B3%A5%E5%8F%96%E7%9C%8C%E5%8F%B2%EF%BC%88%E9%B3%A5%E5%8F%96%E7%9C%8C%E6%AD%B4%E5%8F%B2%EF%BC%89%E3%80%80%E6%94%BF%E6%B2%BB%E9%83%A8%EF%BC%88%E6%98%8E%E6%B2%BB14%E5%B9%B4%EF%BC%89&IS_MAP_S1=&IS_LGC_S1=&IS_EXTSCH=F2009121017025600406%2BF2005022412244001427%2BF2005031812272303110%2BF2007041211494951887&IS_ORG_ID=M2007041211501551922&IS_STYLE=default&IS_SORT_FLD=sort.tror%2Csort.refc&IS_SORT_KND=asc 2021年10月17日閲覧。. 
  10. ^ 法制史学会 『刑罰と国家権力』創文社、1960年。doi:10.11501/2527269NCID BN0366777X全国書誌番号:88024462https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000799619-00 
  11. ^ a b 関・野口、88頁
  12. ^ a b 司法省 (1881-08), 死刑二該ル者の罪状刑名 自第三十八表至四十表, 司法省年報, 2, pp. 32-34, doi:10.11501/1366957, NCID BA67265005, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1366957/99 
  13. ^ 司法省 (1881-12), 死罪者ノ既往及減免等を以人ト物トニ係ル罪状に対照ス, 司法省年報, 3, pp. 46, doi:10.11501/1366958, NCID BA67265005, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1366958/170 
  14. ^ 司法省 (1882-11), 第一部 處斷總數 第一號 常事犯者ノ罪名處斷, 司法省刑事統計年報, 4, pp. 3-10, doi:10.11501/2937941, NCID BA67265005, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937941/35 
  15. ^ 司法省 (1881-08), 明治九年刑事訴訟表第一表 其ノ一 刑名ヲ以人ニ係ル罪状に対照ス, 2, pp. 1-6, doi:10.11501/1366957, NCID BA67265005, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1366957/106 

参考文献編集


関連項目編集