王 基(おう き、478年 - 542年)は、中国北魏末から東魏にかけての軍人官僚本貫太安郡狄那県[1][2]

経歴 編集

北魏末の葛栄の乱に参加し、済北王・寧州刺史に任じられた。葛栄の敗死後も、王基は城に拠って下らず、爾朱栄が使者を送ってきた後に、はじめて降伏した。爾朱栄の下で府従事中郎令となり、磨川に駐屯した。爾朱栄の死後、王基は紇豆陵歩藩に捕らえられて河西に連行され、後に爾朱兆のもとに逃げ帰った。高歓が爾朱兆を平定すると、王基は都督となり、義寧郡太守に任じられた。王基はかつて葛栄軍にいたときに宇文泰と面識があり、宇文泰が関中に拠ると、高歓は王基と侯景を使者として宇文泰のもとに派遣した。宇文泰は王基をとどめて帰さなかった。王基は後に逃げ帰り、冀州長史に任ぜられ、後に行肆州事をつとめた。元象元年(538年)、南益州刺史・北豫州刺史を歴任した。興和4年(542年)冬、奴のために殺害された。享年は65。征東将軍・吏部尚書定州刺史の位を追贈された[1][2]

子に王紘があった[1][2]

脚注 編集

  1. ^ a b c 北斉書 1972, p. 365.
  2. ^ a b c 北史 1974, p. 1998.

伝記資料 編集

参考文献 編集

  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4