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王 弼(おう ひつ、? - 1393年)は、末から初の軍人。臨淮(現在の江蘇省盱眙県)の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。

生涯編集

姓名 王弼
時代 元代 - 明代
生没年 1332年至順3年) - 1394年洪武27年)
字・別名 双刀王(別名)
本貫・出身地 臨淮
職官 元帥→驍騎右衛親軍指揮使→大都督府僉事、世襲指揮使
爵位 定遠侯(明)
諡号 -
陣営・所属 独立勢力→朱元璋
家族・一族 子:王徳王政楚王妃、他3人

祖先は定遠に住んでいたが、後に臨淮に移り住んだ。双刀の使い手で、『双刀王』のあだ名で呼ばれた。

元末の争乱時、当初は三台山に篭って自衛軍を結成していた。年が明けてから、朱元璋に帰順した。朱元璋は王弼の才を知り、彼を宿衛の守りに就かせた。張士誠軍を湖州で破り、池州石埭を攻略した。婺源州を攻め、守将の鉄木児不花を斬って城を取り、捕虜3千を得た。この功で元帥に進んだ。蘭渓金華諸曁を攻略した。池州を救援し、太平を回復した。

1363年鄱陽湖の戦いに参加し、陳友諒軍を破る。武昌攻略に参加し、転戦して廬州を攻略する。安豊を抜き、襄陽安陸を攻略した。淮東、旧館を攻略し、張士誠の将・朱暹を降して湖州を攻略する。驍騎右衛親軍指揮使に進んだ。平江を攻め、王弼軍は盤門に配置された。張士誠軍が西門から出撃し、常遇春軍を敗走させた。常遇春は北濠に兵を割き、さらに兵を割いて戦った。張士誠軍が死力を尽くし、戦いは激戦となった。常遇春は王弼の肘をつついて「軍中の将は皆、優れているが、君の腕でこの窮地を脱することができるか?」と言った。王弼は「できる」と答えた。王弼は双刀を奮って、多くの敵兵を討った。敵軍は少なくなかったが、常遇春軍は王弼の奮戦に続き、ついに張士誠軍を大破した。人馬の多くが溺死し、張士誠自身も水中に落ち、救われて入城するほどだった。これ以後、張士誠軍は出撃することはなかった。張士誠滅亡後、厚い褒賞を賜った。

1368年洪武元年)、北伐に参加し、山東河南河北を攻略し、元の首都・大都を攻略した。山西を攻略し、ココ・テムルを敗走させた。自ら渡河し、陝西を攻略した。

1370年(洪武3年)、大都督府僉事、世襲指揮使となった。

1376年(洪武9年)正月、湯和傅友徳藍玉丁玉と共に延安の守備にあたった。

1378年(洪武11年)11月、沐英に従ってトルファンに遠征した。朶甘の諸酋及び洮州十八族を降し、多数の敵兵を討ち、捕らえた。定遠侯に封ぜられ、食禄2千石を賜った。

1381年(洪武14年)、傅友徳に従って、雲南に遠征した。大理に至り、段世が守る龍尾関を攻めた。趨上関から攻め、沐英軍と挟撃して龍尾関を攻略し、段世を捕らえた。鶴慶麗江の諸郡をことごとく平定した。5百石を加えられた。

1382年(洪武15年)、曹震と共に威楚路を降した。

1387年(洪武20年)、副将軍として馮勝の北伐軍に従い、ナガチュを降した。

1388年(洪武21年)3月、副将軍として、藍玉の北伐軍に従った。大寧を出て、慶州に至った。調べにより、大ハーントグス・テムルブイル湖(捕魚児海)にいることが分かった。間道を通って、百眼井に至った。しかし、敵軍に遭遇しなかったため、藍玉は撤退を考えた。王弼は「我らは10万余の軍勢を率い、漠北深く侵入している。にも関わらず、成果なく撤退するのは、我らの使命を覆すほどの理由があるのか?」と諌めたため、藍玉は思いとどまった。進軍してブイル湖に至った。王弼は先鋒となって進軍した。大風の中の行軍により、敵軍に気付かれることはなかった。そして奇襲をかけ、敵軍は大いに驚き、大勝を収めた。北元の太尉・蛮子を討ち、多数の敵兵が降伏した。トグス・テムルは敗走し、多くの輜重を得た。

1389年(洪武22年)12月、山西、河南、陝西にて練兵を行った。

1390年(洪武23年)、詔により、郷里へと帰還した。

1391年(洪武24年)、傅友徳に従い、副将として郭英と共に北平の守備にあたった。

1392年(洪武25年)、馮勝、傅友徳と共に山西、河南にて練兵を行った。

1393年(洪武26年)2月、応天府に召還される。

1394年(洪武27年)12月、賜死を命じられて亡くなった。これに伴い、爵位も除かれた。

参考文献編集

  • 明史』巻2 本紀第2 太祖2
  • 『明史』巻3 本紀第3 太祖3
  • 『明史』巻132 列伝第20 王弼
  • 『明史』巻132 列伝第20 藍玉