王 徳真(おう とくしん、? - 1272年)は、最初期のモンゴル帝国に仕えた漢人の一人。字は済凖。

元史』には立伝されていないが、『紫山大全集』巻16徳興燕京太原人匠達嚕噶斉王公神道碑にその事蹟が記される。『新元史』巻133には徳興燕京太原人匠達嚕噶斉王公神道碑を元にした列伝が記されている。

概要編集

王徳真の先祖は元々渾源県本貫としていたが、祖父の時代に豊利県に移住し以後この地を本貫とするようになった。王徳真は9歳にして孤児となったが、野狐嶺の戦い金朝に大勝したモンゴル軍によって拾われた。チンギス・カンは王徳真が非凡であることを見込んで手元で養育させたところ、3年でモンゴル語によく通じるようになったため、通事(ケレメチ)として重用されるようになったという。1217年丁丑)冬[1]、金朝遠征から引き上げたチンギス・カンがトーラ川に滞在中、捕虜としてモンゴル高原に連れてこられた者達の多くが飢餓で倒れているという訴えが王徳真になされたため、王徳真はチンギス・カンに上奏して狩猟で得た獣肉や家畜の牛・羊を彼等に分け与えるよう手配し、多くを救ったという[2]

1225年乙酉)、チンギス・カンより勲臣のイェスデル・タブタイ・ジャライルタイと並んで奉御に任じられ、王徳真の忠義心を気に入っていたチンギス・カンはその上奏の多くを認めたという。また、この頃チンギス・カンの第2皇后クランオルドの統轄も命じられている。1227年丁亥)正月、チンギス・カンが西夏遠征を行った際には、一度降ったにも関わらず再びモンゴルから背いた西夏の民に怒り城民を皆殺しにしようとしたが、王徳真が諫めてこれをやめさせたという逸話が残されている[3]

1230年庚寅)、第2代皇帝オゴデイが即位して2年目に徳興・燕京人匠ダルガチの地位を授けられた。1232年壬辰)、スブタイが金朝の首都の開封を包囲すると、崔立が開封城内でクーデターを起こし降伏を申し出てきた。モンゴル軍が開封を占領した際には職人(諸匠)を集めるよう命じられ、これに応募する者は数千を数えたという。長期に渡る包囲戦によって投降した者達の中には飢餓状態に陥っている者も少なくなかったため、王徳真は彼等に食糧を提供し、これによって死を免れた者の数は数え切れないほどであった[4]1237年丁酉)、徳興・燕京・太原人匠ダルガチの地位を授かっている[5]

オゴデイの死後にドレゲネが一時国政を代行した時には西京等路廉訪使に推薦され、また第4代皇帝モンケの治世には平陽・太原等路廉訪使にも推薦されているが、いずれも病を理由に辞退している[6]。その後、太原路の私宅に隠棲して十年余りを過ごし、1272年(至元9年)8月に71歳にして亡くなった。夫人は李氏・張氏・劉氏・呼嚕氏の4名がおり、息子が6人、娘が4人いたという[7]

脚注編集

  1. ^ 宮2018,562頁
  2. ^ 『紫山大全集』巻16徳興燕京太原人匠達嚕噶斉王公神道碑,「公諱徳真、字済凖。世為渾源人、大父始遷隆興之豊利。考諱資栄妣史氏。公生九歳而孤、太祖皇帝提兵南下、敗金軍於野狐嶺得公。喜其頭顱不凡、命宮掖撫養之。三年通蒙古語言訳説辯利太祖出入提携之。丁丑冬、太祖巡狩於図拉河、匠官史大使帥群工懇訴於公曰吾儕小人以絶食而殍者已十七八、存者亦将垂死微公其誰救之。公即言於上、凡所獲猟獣尽以給餓者、継賜以牛羊、又弛塔拉布哈松実之禁得采食用是困者起瘠者肥免於溝壑者不知其幾歳」
  3. ^ 『紫山大全集』巻16徳興燕京太原人匠達嚕噶斉王公神道碑,「乙酉、会同於布哈綽克察、太祖以官制未備、凡当職分者称集賽、以公漢人定名為奉御、実与伊蘇巴爾・塔布岱・札固喇台同列。三人者貴官勲臣也、軍国重事悉委任焉。公知無不言、竭忠尽瘁事関利病有犯無隠。或至夜分、敷陳於御榻下太祖喜其忠直多允其奏。又命公兼掌二皇后宮政、后撫之如子嘗謂所親曰此吾之奇凌扣也。丁亥春正月、太祖征西夏厳李王誅之。怒其負固不服、欲屠其城群臣、莫敢言公諫曰『犯順効逆者、既已就戮。民各為其主百万之罪宜活。陛下同仁一視子、憐万国非敵百姓也。幸寛天誅』。太祖悦悟遂赦之。上欲伐鞏公曰西夏已平、鞏不足抜、不必労師用衆臣請諭之禍福遂持節以往鞏開門出降」
  4. ^ 『紫山大全集』巻16徳興燕京太原人匠達嚕噶斉王公神道碑,「歳庚寅、太宗皇帝以公先朝旧臣服労王家不欲労以煩劇。賜公金符授徳興・燕京人匠達嚕噶斉。歳壬辰、蘇布特囲南京城守崔立遣使納款情偽未可知。公与来使同往立、出降時有詔命公集諸匠一日応募者数千。適歳飢人相食、公出已財糧以食之、脱死者不可計。率諸匠北来至太原、較其伎芸率多、畏死冒充而実不能者公亦不之罪諭以温語示以程法積以日月、後皆為良工」
  5. ^ 『紫山大全集』巻16徳興燕京太原人匠達嚕噶斉王公神道碑,「歳丁酉、後除徳興・燕京・太原人匠達嚕噶斉。中書耶律公従容謂公曰『公啓運勲旧、宜侯牧一路不然公且留中、相与同心協力匡輔聖政』。公力辞曰僕幼蒙国恩撫養禁掖出入行陣。粗有歳年大政高位実非敢居。中書君知不可留、乃止」
  6. ^ なお、『元史』巻86百官志2は廉訪使の正式な設置を至元12年のこととしており、徳興燕京太原人匠達嚕噶斉王公神道碑の記述と食い違う。ただし、ブルト・カヤなども同時期に廉訪使に任じられていることなどから、この時点での「廉訪使」はモンゴル帝国におけるジャルグチの漢訳の一つに過ぎないのではないかとする説もある(山本2014,107頁)
  7. ^ 『紫山大全集』巻16徳興燕京太原人匠達嚕噶斉王公神道碑,「六皇后摂政、執政者、擬公為西京等路廉訪使。先帝南征、大臣又奏、公可為平陽・太原等路廉訪使、皆以疾辞。一日、召諸子曰、余以垂髫野竪被日月之光沾雨露之沢、歴仕五朝而無繊芥之補、今老矣。不可厚積官謗、遂上章告老、朝廷憐公耆旧俾其子孫襲爵。既得請燕居於太原之私第、往来別業山水間読書学、養生十有餘年。嫁妾三人放駆、二十人焚毀、諸人負銭券二百餘張。至元九年八月甲午、以寿終於正寝。享年七十有一。夫人四、李氏・張氏・劉氏・呼嚕氏。子男六人、什喇哈斯張出也、次曰納延、次曰居実劉出也、次曰曩嘉特、次曰居廉居安。女四人、某適某、次曰某適某人。孫男八人、某以某年月日葬於某里」

参考文献編集