王憲嫄
南朝宋の孝武帝劉駿の皇后
王 憲嫄(おう けんげん)は、南朝宋の孝武帝劉駿の皇后。本貫は琅邪郡臨沂県。
王皇后 | |
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南朝宋の皇后 | |
在位 |
元嘉30年5月13日 - 大明8年閏5月23日 (453年6月5日 - 464年7月12日) |
全名 | 王憲嫄 |
別称 | 孝武文穆皇后 |
出生 |
元嘉5年(428年) |
死去 |
大明8年8月23日[1] (464年10月9日) 建康、含章殿 |
埋葬 | 景寧陵 |
配偶者 | 孝武帝 |
子女 |
前廃帝 劉子尚 劉楚玉(山陰公主) 劉楚佩(臨淮公主) 劉楚琇 劉修明(康楽公主) |
氏族 | 琅邪王氏 |
父親 | 王偃 |
母親 | 劉栄男(呉興長公主) |
経歴
編集王偃の娘として生まれた。元嘉20年(443年)、武陵王妃に封じられた。劉駿の寵愛を受け、前廃帝劉子業・豫章王劉子尚・山陰公主劉楚玉・臨淮公主劉楚佩・皇女劉楚琇・康楽公主劉修明を産んだ。元嘉30年(453年)2月、劉駿が劉劭を討つと、憲嫄は路恵男とともに尋陽に留まった。5月、反乱が平定されると、憲嫄は建康に入って、皇后に立てられた。
大明4年(460年)3月、憲嫄は六宮を率いて西郊で躬桑の儀式をおこない、皇太后の路恵男がその儀礼を観覧した。大明8年(464年)閏5月に劉子業が即位すると、7月に憲嫄は皇太后となり、永訓宮と称された。同年8月23日、含章殿にて崩じた。享年は38。9月、景寧陵に陪葬された。諡は文穆皇后といった。
脚注
編集- ^ 『宋書』巻7, 前廃帝紀 大明八年八月己丑条による。