田中充 (外野手)

元プロ野球選手

田中 充(たなか みつる、1979年9月6日 - )は、京都府京都市出身の元プロ野球選手外野手)、野球指導者。2007年のみ登録名ミツル

田中 充
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市右京区[1]
生年月日 (1979-09-06) 1979年9月6日(44歳)
身長
体重
187 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1997年 ドラフト4位
初出場 2002年4月2日
最終出場 2006年5月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

来歴・人物 編集

小学4年の時に野球を始め、中学時代はエースで4番だった[1]

西京商業高校時代は、1年夏に一塁手となり、2年から中堅手でレギュラーとなる[1]。「古都のゴジラ」と呼ばれていた強打者だった。高校通算20本塁打[1]

1997年のドラフト4位で横浜ベイスターズに入団[1]背番号511997年の首位打者であった鈴木尚典より受け継ぎ、バットコントロールも良いことから、後継者として期待されていた。

しかし、プロとしては非力さが目立ち、中距離打者としてのスタイルをつかむまでに試行錯誤を繰り返すこととなった。加えて故障もあり、一軍定着はおろか一軍昇格も出来ない年が続いた。

2002年に初めて一軍に昇格し、2本の安打を記録した。その後、2003年2006年にも一軍で打席に立ったが、ヒットを打つことなく短期間でファーム落ちしてしまった。ファームでは、走・攻・守の三拍子揃った外野手としてレギュラーを確保していたが、一軍ではその力を発揮できなかった。

2007年からは、鈴木尚(鈴木尚典より登録名を変更)が背番号を51に戻すのに伴って0に変更となった。同時に登録名を本名の田中充から「ミツル」に変更した。しかし、下窪陽介下園辰哉の入団や内川聖一の外野手転向によって外野の層が厚くなり、一軍昇格がないまま同年10月に戦力外通告を受け退団。同年11月25日に行われた湘南シーレックスのファン感謝のイベント「シーレックスフェスタ」に、既に退団が決定していたが「ファンの皆さんに感謝の気持ちを伝えたい」と特別に参加。イベント中に行われたホームラン競争で「代打」として登場し見事な一発を放った。その後、チームメイトに胴上げされた。

2008年からは社会人野球パナソニックでプレーし、一時レギュラーを張っていたが、2009年シーズン限りで退団した。パナソニック退社後は、関西外国語大学硬式野球部にてコーチを務める[2]。その後打撃コーチとしてパナソニックに復帰したが[3][4]2019年度限りで退団している。

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
2002 横浜 17 20 20 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 9 0 .100 .100 .100 .200
2003 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
2006 9 8 7 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 2 1 .000 .125 .000 .125
通算:3年 27 29 28 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 1 0 0 12 1 .071 .103 .071 .175

記録 編集

背番号 編集

  • 51 (1998年 - 2006,2018年)
  • 0 (2007年)
  • 29 (2008年 - 2009年)

登録名 編集

  • 田中 充 (たなか みつる、1998年 - 2006年)
  • ミツル (2007年)

脚注 編集

  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、342ページ
  2. ^ 田中充”. VICTORYアスリート名鑑. 2020年9月27日閲覧。
  3. ^ 2015年度 パナソニック野球部 活動報告 | 活動レポート”. パナソニック スポーツ. Panasonic (2015年12月21日). 2020年9月27日閲覧。
  4. ^ 大林幹雄 (2019年7月28日). “社会人野球で奮闘する「元プロ」たちは選手だけではない”. Sponichi Annex. https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/07/28/kiji/20190728s00001003115000c.html 2020年9月27日閲覧。 

関連項目 編集

外部リンク 編集