田中友幸

日本の映画プロデューサー(1910−1997)

田中 友幸たなか ともゆき[出典 1]1910年明治43年)[出典 2]4月26日[7][8] - 1997年平成9年)4月2日[5])は、映画プロデューサー東宝映画代表取締役会長[3][4]、日本創造企画代表取締役会長、日本アカデミー賞協会副会長、日本映画テレビプロデューサー協会顧問を歴任。世界的に有名な怪獣「ゴジラ」の設定を着想した人物として知られる。

たなか ともゆき
田中 友幸
田中 友幸
本名 田中 友幸
別名義 神宮寺八郎
生年月日 (1910-04-26) 1910年4月26日
没年月日 (1997-04-02) 1997年4月2日(86歳没)
出生地 日本の旗 大阪府柏原市
職業 映画プロデューサー
ジャンル 映画テレビドラマ
活動期間 1940年 - 1997年
配偶者 中北千枝子(妻・女優)
 
受賞
ブルーリボン賞
作品賞
1980年影武者
その他の賞
藤本賞
1991年ゴジラ
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映画『惑星大戦争』では、神宮寺八郎のペンネームで原作を担当した[9]大阪府[出典 3]堅下(現・柏原市)出身[1]。趣味は旅行。通り名として、「友幸」を「ゆうこう」と読むことが多い[6]

サイン

家族 編集

  • 田中友之進(父親・陸軍中佐)
  • 田中コウ(母親)
  • 田中友信(弟・軍人、1992年に78歳で他界)
  • 田中由起子(妹)
  • 中北千枝子(妻・女優

学歴 編集

職歴 編集

来歴 編集

大阪協同劇団での演劇活動を経て、東宝の映画プロデューサーとして活躍。『ゴジラ』(1954年)以降、同社の看板シリーズとなった怪獣・SF映画のほとんどをプロデュース[出典 9]。また、「8.15」シリーズをはじめとするアクション映画や戦記大作、黒澤明岡本喜八などの監督作品も手掛け、喜劇・文芸作品を専門分野としていたプロデューサー・藤本真澄と東宝の黄金時代を牽引した。なお、関西大学から演劇活動にかけての仲間からは、俳優の志村喬、脚本家の木村武がのちに結集して特撮路線を支えている。

元々健全市民カラーの強い東宝にあって、ひたすら非日常の世界、豪快な男性路線(時代劇を含むアクション映画、怪獣・SF映画、戦争・パニック映画)にこだわり続けた。東宝社内で異端派に終わるべきところ、数回にわたって日本映画の興行成績記録を更新するという空前絶後のヒットメーカーぶりを発揮。結局は会社の色まで染め替えてしまった。今日では東宝の名は創立以来のサラリーマン喜劇や文芸映画以上に、田中が主導した特撮&アクション路線の印象が強くなっている。とりわけ『日本沈没』で大ヒットを飛ばして以後は東宝系の映画館主から絶大な信頼を受けた。黒澤明作品も、田中がプロデュースした1960年から1980年にかけての時期は娯楽性が強く、大ヒット作が多い。

1976年、前半期の黒澤映画を一手にプロデュースして名声を博しながら東宝を追われ、ピンク映画の監督に転じていたかつての同僚・本木荘二郎が窮死した際は東宝関係者で唯一葬儀に出席[要出典]した。その少し前には宝塚映画あたりで本木をカムバックさせられないか打診していたといわれる。

三船プロダクションの設立と運営にも森岩雄藤本真澄川喜多長政らと大きく尽力した[15]

没後に製作された『モスラ3 キングギドラ来襲』(1998年)の劇中に、主人公の祖父の肖像として田中の写真が飾られている[16]

ゴジラシリーズについて 編集

ゴジラの生みの親として紹介されるのは円谷英二であることが多いが、一般に知られているゴジラの基本設定を思いつき、実際の企画を立ち上げたのは田中である[出典 10][注釈 2]。田中は、映画『キング・コング』を観て特撮の可能性を感じ『ゴジラ』のような映画を目指すようになったといい、世界的なキャラクターを創造できたことは自身の誇りであると述べている[10]。田中はこのことに強い自負を抱いていたらしく、キネマ旬報誌上[要文献特定詳細情報]で北島明弘が執筆したゴジラ関連記事に自分への言及がないことに不満を抱いて呼び出し、インタビューを掲載させたこともある[注釈 3]

メカゴジラの逆襲』(1975年)でゴジラシリーズが一旦終了した後も、田中が陣頭に立ってゴジラ復活へ向けた活動を行い[13][19]、『ゴジラ』(1984年)を実現させるに至った[20]

『ゴジラ』(1984年版)では、9年ぶりに復活するゴジラであることから特に力を入れていたといい、原案として脚本作業に直接意見を行ったり、撮影でも現場で直接指示をしたりするなどしていた[21][22]。制作協力の田中文雄は、人生最後の作品であるかのように情熱を傾け、自身の怪獣映画の総決算のようであったと評している[21]。また、監督の橋本幸治は、田中がゴジラを侮辱するようなセリフに憤っていたことに際し、田中は自身とゴジラを重ね合わせているのだと解釈している[22]。一方で、同作品がゴジラ復活を求めていたファンからの評価が芳しくなかったことについては重く受け止め、次作『ゴジラvsビオランテ』(1989年)ではストーリーの公募を行い、バイオテクノロジーの設定を取り入れるなどハリウッド映画のようなエンターテイメント性を重視し、スタッフの世代交代も図るなど、新たな要素を精力的に取り入れていった[23]

ゴジラを通じて核問題を描くことも重視しており、『ゴジラ』(1984年版)ではスタッフの反対を押し切ってゴジラが原子力発電所を襲撃するシーンを盛り込んだほか[21]、『ゴジラvsキングギドラ』(1991年)では日本企業が原子力潜水艦を用いてゴジラを誕生させるという展開を強く反対した[24]

『vsビオランテ』の監督を務めた大森一樹は、田中は高齢ながら自身で決めて動いて映画を作っているという姿勢であり、「ゴジラとは私だ」という田中の意志を強く感じていたといい、事実上同作品が田中の最後のゴジラ映画であったと語っている[25]。完成後に田中から握手を求められ「ありがとう」と言われ、大森はすごい仕事をしたのだと実感したと述懐している[26]

『vsビオランテ』プロデューサーの富山省吾によれば、特技監督の川北紘一による改訂脚本もあったとされるが、田中は「円谷にもやらせなかったことは川北にやらせない」として、特撮監督が脚本を書くことを受け入れなかったという[26]。大森は、田中がプロデューサーとして目を光らせ自身と川北をうまくコントロールしていたと述懐している[25]

ゴジラを自分の息子とも称しており、『vsキングギドラ』でのインタビューでは「ゴジラだけは誰にも作らせられないし、作らせたくない」とも述べていた[3]。しかし、『vsキングギドラ』以降は、田中の体調の問題があり、プロデューサー業務は富山省吾に比重が置かれていった[27][注釈 4]。1992年の『ゴジラvsモスラ』からは広尾の自宅でリハビリ療養をとりながら東宝スタジオへ視察する形となり、打ち合わせは富山と林芳信社長が自宅へ訪問してやる形となった[29]。平成ゴジラVSシリーズの最終作にして、田中が携わった最後のゴジラ作品でもある『ゴジラvsデストロイア』(1995年)では、ゴジラを死なせることを了承しつつ、シリーズ自体は継続できるような結末とすることを要望したという[出典 11]

1998年に公開された『GODZILLA』のエンドクレジットの最後には、「田中友幸の思い出に捧ぐ」という一文が記されている。

人物 編集

その硬派で一貫した作品群、上記のインタビューのような強気なエピソード、三菱創価学会とも太いパイプを築き東宝グループ製作部門に君臨した晩年のポジションなどから、強面なイメージで語られることも多いが、実際は柔和で温厚な調整型の人物であったとされる。試写でまずいところがあると、隣席の監督をつねってくるなど、お茶目な面もあった。なお、1970年代後半には本社の専務取締役である西野一夫が社長を兼ねる東宝映像の会長をつとめるなど、藤本引退後は年齢もあって本社役員陣の上手に立つ長老として遇されながらも、森、藤本[注釈 5]とは異なって一度も本社取締役には就かなかった。そのため、本体中枢入りと引き換えにプロデューサーの肩書きを外さざるを得なかった彼ら[注釈 6]と違って、終生製作部隊である株式会社東宝映画を膝下に抱え、オーナー型でさえ海外にも類のない、86歳まで切れ目なく作品を発表するという映画プロデューサー人生を、しかもサラリーマン型でまっとうすることとなった[注釈 7]

ゴジラ委員会委員長を務めた東宝の堀内實三は、田中について熱心でしつこい人物であったと評しており、時間を問わず電話をかけてきて既に会議した内容について何度も話すことも多かったという[6]。また、田中は特にゴジラに対して思い入れが深かったと述べている[6]

暁の追跡』で初めて田中と組んだ映画監督市川崑は、「あの人は若いころから、”田中牛五郎”なんて言われるくらい、粘り屋で有名だったんですよ」と、後年の取材で証言している。『天晴れ一番手柄 青春銭形平次』で再び田中と組んだ際、主役の起用に関して、大谷友右衛門を推したい田中が突然、市川監督の自宅にやって来て話し合いを始めたが、元々池部良主演で映画化を進めていた市川との間で折り合いがつかず、挙句の果てに応接間のソファーに平然と横になって粘る態度を見せ始めたため、最初は妻の和田夏十の助言もあって断るつもりでいた市川も、ついに根負けして大友を起用するに至った逸話を持つ[32]

東宝で特技監督を務めた中野昭慶は、田中は勉強家で、新聞を全紙とっており、自宅には週刊誌が積み重ねられており、それらからアイデアを得た記事を破り取って持ち歩いていたと証言している[33]。時には百科事典を破り取っていたこともあったという[33]。また、田中は円谷英二に次ぐ粘り強さを持っていたといい、藤本に企画の許可を求めた際には、寝入った藤本のベッドの横で待ち続けていたこともあった[33]

撮影現場では、プライベートで撮影風景を8ミリカメラに収めており、モノクロ映画である『用心棒』のカラーメイキングや、カットとなりフィルムが現存しないとされる『モスラ』の九州ロケの様子など、貴重な映像も残されている[34]。田中の死後、これらのフィルムはカメラマンであった古山正が保管している[34]

戦争映画では『連合艦隊』(1981年)が自身の集大成であると語っており、同作品とゴジラ映画が自身の双璧であると述べている[3]

博覧会とのかかわり 編集

1967年1月、大阪万博に向けて、三菱万国博綜合委員会寺尾一郎委員長から三菱パビリオンのプロデューサー就任を求められる。基本出展構想を練るために起案メンバーに未来志向の福島正実星新一矢野徹真鍋博を起用する。同年、三菱館のテーマ「日本の自然と日本人の夢」に決まる。館名を「三菱未来館」とし、明解なメッセージを発信する。プロローグとエピローグは歩行動線、全室映像に包み込まれる日本の自然と50年後の日本の「空」「海」「陸」の未来ゾーンは、動く歩道の強制動線とする。田中プロデューサーの意図する展示は分かりやすさと臨場感、見事に観客に伝わった。EXPO'70では人気ベストスリーとなり、三菱未来館は1,142万人の動員を誇る。

1971年1月8日、東宝三菱商事三菱地所の出資により日本創造企画株式会社(東京都千代田区丸の内)を設立し田中友幸は創業社長となる。時代を先取りする「レジャー」、「教育環境」、「流通」の企画・制作を営業の柱とする。

特に博覧会部門は「沖縄海洋博」、「ポートピア'81」、「科学万博つくば'85」では三菱未来館の総合プロデューサーを歴任する。

田中友幸の博覧会への信条は、掲げたテーマを分かりやすく具現化し、動員数を高めるため駆動装置(ライド)を導入することであった。海洋博では高低差のあるムービングシート1周140m、ポートピア'81では直径28m回転劇場 / ラウンドロード、科学万博ではモーションコントロール・カー1周160m16車両による強制動線を採用する。三菱グループの企業のうちの三菱重工業のハード技術を博覧会に活用させる。

それぞれの博覧会では、「海の資源を展開する海洋博」、「宇宙から深海までの生活に及ぼす事象のポートピア'81」、「生命の起源から宇宙開発を巡る科学万博」の複合展示を採用した。

映画人田中友幸にとっての博覧会は徹底したライブ感を持続していた。博覧会が開幕してもパビリオンに入ると展示の手直しを要求する。博覧会の展示は生き物である。その持論は止む時がなかった。反面、映画と違い一発勝負が博覧会である、と。その怖さを身をもって体験されていた。

日本創造企画では、取締役社長を21年間、取締役会長を5年間務める。株式会社東宝映画プロデューサーの中、イベント会社を持ち多角的に活動した者は珍しい。田中友幸はかねがね一発勝負の仕事もさりながら継続性のあることに専念せよと唱えていた。日本創造企画は出資会社の三菱地所から横浜みなとみらい21地区「横浜ランドマークタワー・展望フロアスカイガーデン」などの集客施設の運営業務に携り、田中友幸の提唱に応えている。

交友関係 編集

東宝の俳優であった夏木陽介によれば、田中は夏木や鶴田浩二堺左千夫仲代達矢などを自宅に招いてよく麻雀をやっていた[35]

夏木は、自身のチームが出場したパリ・ダカールラリーの壮行会で田中にスピーチを依頼するなど、俳優業以外でも生涯交流があったという[35]

主な製作担当作品 編集

東宝社員時代・契約プロデューサー時代 編集

東宝映像社長時代 編集

東宝映画社長時代 編集

東宝映画会長時代 編集

東宝映画相談役時代 編集

受賞歴 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 書籍『ゴジラ来襲』では、「1948年」と記述している[8]
  2. ^ 円谷は第1作では実質カメラを有川貞昌に任せて特撮全体を指揮していたものの、タイトル上は特殊撮影担当者として、特殊美術や合成と並ぶ3人の「特殊技術」の1人としてしか扱われていない。
  3. ^ 北島はその思い入れの強さに感じ入ったと記している。
  4. ^ 同作品監督の大森一樹は、このころから田中はあまり意見を出さず、譲歩することが多くなったと証言している[28]
  5. ^ あるいは田中の後で東宝映画社長に就いた林芳信、島谷能成、市川南。
  6. ^ 藤本は退社後にフリープロデューサーに転じる予定だったが死によって果たせなかった。
  7. ^ 東宝プロデューサーの田中文雄は、プロデューサー業は消耗が激しいので5年もてばいい方だといい、これを続けている友幸は凄い人だと評し、旗振り役としても重要であったと述べている[20]

出典 編集

  1. ^ a b c d e 東宝特撮映画全史 1983, pp. 52–53, 「田中友幸 特撮映画の思い出」
  2. ^ a b c d e f g ゴジラ大百科 1990, pp. 36–37, 「INTERVIEW 『ゴジラ』映画のファーザー 田中友幸」
  3. ^ a b c d e f g h 最新ゴジラ大百科 1991, pp. 32–33, 「GODZILLA PEOPLE INTERVIEW 1 田中友幸」
  4. ^ a b c d e f g ゴジラ大百科 1992, pp. 65–69, 「BIG対談 田中友幸vs川北紘一」
  5. ^ a b c ゴジラ画報 1999, pp. 262–263, 「forever田中友幸」
  6. ^ a b c d 平成ゴジラクロニクル 2009, pp. 220–221, 「第7章 平成ゴジラシリーズを作った男たち 堀内實三」
  7. ^ a b c d e f g h i j 東宝特撮映画全史 1983, p. 538, 「特撮映画スタッフ名鑑」
  8. ^ a b c d e f g h i j ゴジラ来襲 1998, pp. 172–173, 「第5章 東宝・特撮映画主要スタッフ紳士録」
  9. ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 198, 「『惑星大戦争』資料館」
  10. ^ a b c d ヒットブックスVSモスラ 1992, pp. 84–85, 「製作者インタビュー 怪獣映画は娯楽の王様です」
  11. ^ ゴジラ大全集 1994, pp. 50–51, 「東宝特撮映画史 ゴジラ誕生 ゴジラ以前」
  12. ^ ゴジラ大全集 1994, pp. 68–69, 「東宝特撮映画史 ゴジラ誕生 チャンピオンまつりの時代」
  13. ^ a b ゴジラ大全集 1994, pp. 72–73, 「東宝特撮映画史 ゴジラ誕生 特撮復権にむけて」
  14. ^ 「「ゴジラ」の生みの親」読売新聞1997年4月3日朝刊35面
  15. ^ 黒井和男『映像の仕掛け人たち』キネマ旬報社、1986年7月、68頁。 
  16. ^ 「MAIN STAFF INTERVIEW 監督:米田興弘」『モスラ3 キングギドラ来襲』東宝〈東宝SF特撮映画シリーズVOL.13〉、1998年12月12日、39頁。ISBN 4-924609-74-9 
  17. ^ ゴジラ大全集 1994, pp. 52–53, 「東宝特撮映画史 ゴジラ誕生 ゴジラ誕生」
  18. ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 5, 「『ゴジラ』作品解説」
  19. ^ 平成ゴジラ大全 2003, pp. 28–37, 「序之壱 復活への長い道のり」
  20. ^ a b ゴジラ大全集 1994, pp. 74–75, 「東宝特撮映画史 ゴジラ誕生 ゴジラ再生」
  21. ^ a b c 平成ゴジラ大全 2003, pp. 45–51, 「序之弐 復活『ゴジラ』 再燃する“ゴジラ - 核”問題」
  22. ^ a b 平成ゴジラ大全 2003, pp. 68–70, 「序之弐 復活『ゴジラ』 友幸のゴジラ、ゴジラの友幸」
  23. ^ 平成ゴジラ大全 2003, pp. 84–99, 「破之壱 『ゴジラVSビオランテ』」
  24. ^ 平成ゴジラ大全 2003, pp. 139–140, 「破之弐 『ゴジラVSキングギドラ』 準備稿と決定稿の違い」
  25. ^ a b VSビオランテコンプリーション 2015, pp. 68–71, 「スペシャルインタビュー 大森一樹」
  26. ^ a b VSビオランテコンプリーション 2015, pp. 65–67, 「スペシャルインタビュー 富山省吾」
  27. ^ a b 平成ゴジラクロニクル 2009, pp. 222–225, 「第7章 平成ゴジラシリーズを作った男たち 富山省吾」
  28. ^ 平成ゴジラクロニクル 2009, pp. 226–229, 「第7章 平成ゴジラシリーズを作った男たち 大森一樹」
  29. ^ 田中文雄 1993, p. 8 - 9.
  30. ^ 平成ゴジラ大全 2003, pp. 284–285, 「急之参 『ゴジラVSデストロイア』 ゴジラ死す!」
  31. ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 251, 「『ゴジラVSデストロイア』撮影秘話」
  32. ^ 『完本 市川崑の映画たち』、2015年11月発行、市川崑・森遊机、洋泉社、P95
  33. ^ a b c 東宝特撮映画全史 1983, p. 105, 「東宝特撮映画作品史 ゴジラ」
  34. ^ a b モスラ映画大全 2011, p. 21, 文・中村哲「幻の九州ロケ」
  35. ^ a b ゴジラとともに 2016, pp. 92–93, 構成・文 友井健人「夏木陽介」

出典(リンク) 編集

参考文献 編集

外部リンク 編集

先代
藤本真澄
株式会社東宝映画社長
第2代(1975年 - 1981年)
次代
林芳信