田中 守平(たなか もりへい、1884年9月8日 - 1929年12月17日)は、霊術団体・太霊道の創始者である。

たなか もりへい

田中 守平
生誕 1884年(明治17年)9月8日
岐阜県恵那郡武並村(現・恵那市)
死没 1929年(昭和4年)12月17日
東京都
国籍 日本の旗 日本
職業 霊術家 太霊道創始者
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略歴 編集

生い立ち 編集

明治17年(1884年)岐阜県恵那郡武並村(現・恵那市)に生まれる。田中家は庄屋の出ではあったが、守平が生まれたころは没落していた。8歳のときに鬱状態になり、家に引きこもる生活だった[1]高等小学校を卒業後、小学校の助教員になったが、明治33年に上京し、働きながら国民英学会に通う。大蔵省印刷局(内閣統計局の下級職員)に勤務しながら、日本大学と、東京外国語学校の別科に通学[1]

19歳の明治36年(1903年)11月に桜田門前にて天皇一行に対し上奏事件を起こす。ロシアへの強硬策を進言した書を天皇に渡そうとしたものだが、すぐ警察に逮捕される。その内容が当時の国民感情に近かったため、新聞は憂国の士と田中を擁護する記事を書き、警視庁は誇大妄想狂として不敬罪を適用せず、病気として家族に引き渡す[1]

兄に引き取られて故郷に帰り、当局の監視下に置かれながら、自宅裏の山の庵に蟄居し、雑誌『日本人』に「東亜聯邦論」を連載[1]。明治38年(1905年)に恵那山に入り、90日にも及ぶ断食をする。太霊道の中核をなす霊的能力を、この断食中に体得したという。その後守平は山を下りて里に帰る。守平は日本海海戦の勝利、日露講和条約締結などを予言して的中させた。

霊子療法 編集

明治39年、名古屋で大日本帝国青年会を結成し雑誌を創刊。蒙古探検隊に誘われたが、計画が頓挫したため、再び庵に戻り修行を続ける。明治41年、再度上京し、青年会を再興しようと活動を始めたところ逮捕され、再び故郷に戻り、明治43年に「太霊道真典」を著す[1]。翌年上京し、東京霊理学会を設立して、呼吸法、座法、お手当て、自動運動を組み合わせた霊子療法で治療活動を始める[2]。法服と長髪という独特の姿で、中国、朝鮮、満州、蒙古などを巡業し、霊子治療を行ない、大正2年に帰国したときは新聞で報じられた[3]

帰国後、催眠術心理学信仰などを使った精神療法を行なう者たちで組織した「東洋心理協会」に参加。大正4年(1915年)3月に岐阜県有志のすすめにより衆議院議員に立候補したが、落選した。太霊道によって人々を救おうとした守平は、大正5年(1916年)東京に「太霊道本院」を開設し、大正9年(1920年)には、故郷に「恵那山大本院」が落成した。誰でも修行で霊力を持てるとし、会員制で治療の施術や伝授を行なった。会員には、中村春二成蹊学園創設者)、郡司成忠(軍人)、友清歓真神道天行居)などがいた[4]。守平は太霊道による霊的文明の建設を目指していたが、数年後大本院全焼の事件が起こり、昭和4年(1929年)12月14日、循環器障害の発作で倒れ、3日後、46歳で亡くなった。

関連文献 編集

  • 『太霊道及霊子術講授録』 上下巻、田中守平 八幡書店
  • 『奇跡の超能力開発法太霊道―超人霊術家・田中守平があみだした驚異の秘術』 高木一行 学習研究社
  • 『精神療法講義録』古屋景晴 精神研究会 (近代デジタルライブラリー所収 精神療法講義 第3輯)1918年(大正7年)。
  • 『恵那市史 通史編 第3巻 2 (近・現代 2 生活・民族・信仰)』 第九章 村の発展 第一〇節 武並村の村つくり 二 武並村と太霊道 p122~p129 恵那市史編纂委員会 1991年

外部リンク 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 「田中守平の亜細亜 その1」
  2. ^ 「田中守平の亜細亜 その3」
  3. ^ 「田中守平の亜細亜 その2」
  4. ^ 「田中守平の亜細亜 その4」