田原 親宏(たわら ちかひろ)は、戦国時代武将大友氏の家臣。

 
田原親宏
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正7年9月16日1579年10月6日
別名 次郎。親実(初名)。宗亀・常陸入道(法名)
戒名 宗亀居士
官位 常陸
主君 大友宗麟義統
氏族 田原氏(宗家)
父母 父:田原親述、母:佐伯惟勝の娘
養父:田原親董
兄弟 田原親董、親宏
長女(秋月種実正室)、次女(田原親貫正室)
養子:田原親貫
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初名は親実(ちかざね)。田原親述の子で、同母兄・田原親董(ちかただ)の養子になった。大友義鑑の時代から大友家に仕えており、天文3年(1534年)の勢場ヶ原の戦い大内義隆配下の陶興房と戦った。田原家は大友家の庶家で実力も大きく、「豊後の大身中最も有力」「豊後の最も勢力ある大身」(天正7年のフランシスコ・カリアン書簡より)[1]と言われるほどの実力者であった。そのため歴代の大友家当主をはじめ、義鑑・宗麟(義鎮)も親宏の実力には警戒しており、年寄から解任して中枢から排除したり豊後国外へ追放したりした[2]。天文12年(1543年)に出雲、その後に大内義隆を頼っているのは義鑑により追放されたためである。

だが二階崩れの変で義鑑が死去し、義鎮が跡を継いだ2年後に帰参を許されて国東郡安岐郷や国東郷政所職を与えられている。その後は大友家の主な合戦に参加し、弘治3年(1557年)に大内義長毛利元就に敗れて自害すると豊前など北九州の旧大内領制圧に貢献。永禄年間には大内氏を滅ぼして北九州にまで進出してきた毛利氏と豊前など各地を転戦して戦った。その戦功は大きく、永禄10年(1567年)には宗麟より豊前における戦功を賞されている。以後も永禄11年(1568年)の高橋鑑種攻め、永禄13年(1570年)の毛利軍との決戦(多々良浜の戦い)などに参加して戦功を挙げた。しかし宗麟は親宏の戦功を賞しながらも実力を警戒し、親宏の所領を奪って武蔵田原氏という庶流の田原親賢に与えたりして田原家の内紛を誘ったりした[2]

天正6年(1578年)11月の耳川の戦いで大友軍が島津軍に敗れて衰退すると、12月に親宏は豊後府内から出奔して居城のある国東郡の安岐城に戻った。そして宗麟・義統父子に対してかつて宗麟が奪って親賢に与えた旧領を返還するように強要する。一方で縁戚の秋月種実らと共謀して挙兵の準備も進めるなどした。このため大友父子は死の覚悟を決めて家臣団を慰撫する一方[3]、親宏に対しても要求を容れて旧領を返還した。だが親宏は挙兵して豊後府内を攻撃し、大友父子を討とうとした。当時、親宏が挙兵して府内を襲撃すれば大友家は必ず滅亡すると宣教師などに判断されていた[4]。だが挙兵直前になって病に倒れた親宏は、天正7年(1579年)に急死した。跡を婿養子の親貫が継いだ。

脚注編集

  1. ^ 外山, p. 66.
  2. ^ a b 外山, p. 67.
  3. ^ 外山, p. 259.
  4. ^ 外山, p. 67,259.

参考文献編集

  • 外山幹夫『大友宗麟』吉川弘文館、1975年。ISBN 978-4642051392
  • 阿部猛、西村圭子 編『戦国人名事典』新人物往来社、1977年。