田斉
田斉(でんせい)は、中国の戦国時代、紀元前386年に田氏が姜姓呂氏の斉(姜斉または呂斉)を滅ぼして新たに立てた国。国号は単に斉であるが、西周・春秋時代の姜斉と特に区別する場合に嬀斉または田斉と呼ばれる。戦国時代中期には、湣王の頃に東帝を称するまでになるほど強盛を誇り、戦国七雄の一つにも数えられる。首都は姜斉の時と変わらず臨淄であった。
国姓 | 嬀姓田氏 |
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爵位 |
侯爵 前344年に王を称す |
国都 |
臨淄 (山東省淄博市臨淄区) |
分封者 | 安王 |
始祖 | 太公 |
滅亡原因 | 秦により滅亡(斉攻略) |
史書の記載 | 史記 |
周朝諸侯国一覧 |
歴史
編集諸侯になるまで
編集田氏の先祖は、紀元前672年に陳から斉へ亡命してきた陳(嬀姓)の利公嬀躍(きやく)の子の公子完である。斉では代々、呂尚(太公望)の子孫である斉公に仕えてきた。
斉の景公の時、田乞(田釐子)が税を徴収する時に小さな斗を使用し、粟を民に配給する時は大きな斗を使用して、民の気持ちをつかみ、また、景公が亡くなった時の公位継承争いで悼公を立てた。田釐子が亡くなると田恒(田成子、ただし『史記』では前漢の文帝劉恒を避諱して「田常」と表記)が後を継いだ。父の田釐子とともに悼公を立てた鮑牧が仲違いを契機に悼公を殺害すると、簡公が立てられ、闞止とともに大臣となったが、2人は並び立つことができず、勢力争いをすることになる。闞止の陰謀を知った田成子が先手を取り、闞止に続いて簡公を殺して、平公を立てた[注 1]。
姜斉の滅亡
編集前391年、姜斉の最後の君主の康公は田和により海島の孤島に追放された。食邑に一城与えられ、祖先を祀ることを許された[1][2]。田和は自立し君主となった(太公)。前386年、田和は周の安王により諸侯に列された。これにより姜姓の斉から田氏の斉に取って代わられた。田和は正式に侯となり、国号を姜斉時代と同じく斉とした。これを「田斉」という。この出来事は「田氏代斉」(姜斉の滅亡)という。田斉は「戦国七雄」の一つである。前379年、康公が死し、姜斉は絶えた[3][4]。
王を名乗る
編集太公の2代後、子の桓公は臨淄に稷下学宮を開き、各国の賢人を招き入れた。これは威王や宣王の代にも続き、東方の学問の中心地となった。子の威王が即位し、鄒忌を相国に任命し政治を改革させた。田忌や孫臏を将軍とし、軍事力も強大化させた。当時最強国の魏を前353年に桂陵で大敗させた。また前341年に馬陵の戦いでも大敗させ、これにより魏は衰退していく[5]。前334年、威王は魏の恵王とともに正式に王号を自称した[6]。威王の晩年、国相の鄒忌と将軍の田忌が対立した。前322年、田忌は臨淄を攻めたが落とせず、楚に亡命した[7]。子の宣王即位後に斉に戻った[8]。
東帝
編集前314年、燕で「子之の乱」が発生した。孟子の献策により[9]、5都の兵を率いて燕へ侵攻することを匡章に命じた。前301年、斉と韓・魏が楚を攻め垂沙の戦いで大勝した。
前298年から前296年に、斉と韓・魏が合従し秦の函谷関に侵攻し、秦に和を求めた[10][11]。前288年、秦の昭襄王は西帝、湣王は東帝を名乗り[12][13]、共同で趙を攻めた。蘇代は帝号を名乗る不利益を説き、湣王は王号に復称した。同年十二月、呂礼が秦に派遣され昭襄王の帝号を王号に復称した[14]。前286年、宋の内乱に応じて宋を滅ぼし、南は楚、西では三晋(趙・魏・韓)に侵攻した。斉は全盛期を迎えた[15]。
合従軍の侵攻
編集宋の滅亡に諸国は危機感を募らせた。秦は趙や楚と和を結んだ。前284年、燕の昭王は楽毅を上将軍に任命し、燕・秦・韓・趙・魏の5国合従軍は済西の戦いで斉軍を大敗させた。合従軍はそこで解散したが燕は追撃を続け、国都の臨淄の他、七十余城を落とした。斉の領地は莒と即墨のみとなった[16]。国都の臨淄を落とされた湣王は莒に逃亡したが、楚が救援のために派遣した淖歯に殺された[17][18]。王孫賈や莒の人は湣王の仇の淖歯を殺し、湣王の子の田法章を襄王として王に立て、必死に抵抗し莒を守った[19]。
田単の復国
編集莒とともに即墨も燕の攻撃に必死に抵抗した。即墨の大夫は楽毅の策にかかり戦死したため、城内の兵士や民衆は公族である田単を将にした。5年が過ぎ、前279年に燕の昭王がこの世を去り、恵王が燕王となった。恵王は楽毅を恨んでおり、田単はそれを知っていたため反間の計を使った。恵王は楽毅を将軍から罷免し、代わりに騎劫を将軍とした。命の危険を感じた楽毅は趙に亡命した。田単は攻勢に出て、「火牛の陣」で燕軍を大敗させた。遂に斉は70余城を取り戻した。田単はこの功により相国に任命された。しかし、秦とともに帝号を名乗っていた時代の力は無く、秦の統一に抵抗することはできなかった[20]。
斉の滅亡
編集前265年、襄王が死に、子の田建が即位した。母の君王后が輔政した。前249年、君王后がこの世を去り、君王后の族弟の后勝が執政した。后勝は秦から賄賂を受け取り、秦の都合のいいように主張した。田建は后勝の主張を聞き入れ五国(韓・趙・魏・燕・楚)の滅亡を傍観し、軍事を強化しなかった[21][22][23]。
五国が滅亡すると、田建は秦が侵攻することを恐れ、将軍や軍隊は西部の辺境に集結した[13]。前221年、秦王政は斉の攻略を王賁に命じた。秦軍は斉軍の主力が集結した西部を避け、元燕の南部から南下し臨淄へ侵攻した。斉軍は突然の北面からの秦軍の侵攻に不意をつかれ瓦解した[13][24]。田建は降伏し、斉は滅亡した[25]。田建は魏の旧領の500里の邑へ赴いたが、食糧を絶たれ、餓死した[26][27]。斉の地に斉郡と瑯琊郡を置いた。秦は中華を統一し、統一王朝の秦朝となった[28]。
歴代君主
編集- 祖系
諡号 | 姓名 | 在位 | 在位年数 |
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太公 | 和 | 紀元前404年 - 紀元前384年 | 在位21年 |
(田剡) | 剡 | 紀元前383年 - 紀元前375年 | 在位9年 |
桓公 | 午 | 紀元前374年 - 紀元前357年 | 在位18年 |
威王 | 因斉 | 紀元前356年 - 紀元前320年 | 在位37年 |
宣王 | 辟彊 | 紀元前319年 - 紀元前301年 | 在位19年 |
湣王 | 地 | 紀元前300年 - 紀元前284年 | 在位17年 |
襄王 | 法章 | 紀元前283年 - 紀元前265年 | 在位19年 |
(田建) | 建 | 紀元前264年 - 紀元前221年 | 在位44年 |
- 系図
(1) 太公 田和 ?-前404年-前386年-前384年 | |||||||||||||||||||||||||||||
(2) 田剡 ?-前383年-前375年 | (3) 桓公 田午 前400年-前374年-前357年 | ||||||||||||||||||||||||||||
孺子喜 ?-前375年 | (4) 威王 田因斉 前378年-前356年-前320年 | ||||||||||||||||||||||||||||
(5) 宣王 田辟彊 前350年-前319年-前301年 | 田郊師 | 靖郭君 田嬰 | |||||||||||||||||||||||||||
(6) 湣王 田地 前323年-前300年-前284年 | 孟嘗君 田文 ?-前279年 | ||||||||||||||||||||||||||||
(7) 襄王 田法章 ?-前283年-前265年 | |||||||||||||||||||||||||||||
(8) 田建 前280年-前264年-前221年 | |||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:十九年,田常曾孫田和始為諸侯,遷康公海濱。
- ^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:宣公卒,子康公貸立。貸立十四年,淫於酒婦人,不聽政。太公乃遷康公於海上,食一城,以奉其先祀。
- ^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:三年,太公與魏文侯會濁澤,求為諸侯。魏文侯乃使使言周天子及諸侯,請立齊相田和為諸侯。周天子許之。康公之十九年,田和立為齊侯,列於周室,紀元年。
- ^ 佐藤 2016, p. 204.
- ^ 佐藤 2016, p. 206.
- ^ 佐藤 2016, p. 205.
- ^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:三十五年,公孫閲又謂成侯忌曰:「公何不令人操十金卜於市,曰『我田忌之人也。吾三戰而三勝,聲威天下。欲為大事,亦吉乎不吉乎』?」卜者出,因令人捕為之卜者,驗其辭於王之所。田忌聞之,因率其徒襲攻臨淄,求成侯,不勝而餎。
- ^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:二年,魏伐趙。趙與韓親,共撃魏。趙不利,戰於南梁。宣王召田忌復故位。
- ^ 《孟子》公孫丑下,孟軻只言“燕可伐”,未言“斉可伐燕”,所以孟軻本人否認自己勧説斉宣王伐燕。
- ^ 島崎晋 2019, p. 71.
- ^ 島崎晋 2016, p. 81.
- ^ 佐藤 2016, p. 208.
- ^ a b c 島崎晋 2019, p. 102.
- ^ 《資治通鑑 周紀卷四》:冬,十月,秦王稱西帝,遣使立齊王為東帝,欲約與共伐趙。蘇代自燕來,齊王曰:「秦使魏冄致帝,子以為何如?」對曰:「願王受之而勿稱也。秦稱之,天下安之,王乃稱之,無後也。秦稱之,天下惡之,王因勿稱,以收天下,此大資也。且伐趙孰與伐桀宋利?今王不如釋帝以收天下之望,發兵以伐桀宋,宋舉則楚、趙、梁、衛皆懼矣。是我以名尊秦而令天下憎之,所謂以卑為尊也。」齊王從之,稱帝二日而復歸之。十二月,呂禮自齊入秦,秦王亦去帝復稱王。
- ^ 《資治通鑑 周紀卷四》:齊湣王既滅宋而驕,乃南侵楚,西侵三晋,欲併二周,為天子。
- ^ 《新序・卷三・雜事第三》:樂毅為昭王謀,必待諸侯兵,齊乃可伐也。於是乃使樂毅使諸侯,遂合連四國之兵以伐齊,大破之。湣王亡逃,僅以身脱,匿莒,樂毅追之,遂屠七十餘城,臨淄盡降,唯莒即墨未下,盡復收燕寶器而歸,復易王之辱。
- ^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:楚使淖歯將兵救齊,因相齊湣王。淖歯遂殺湣王而與燕共分齊之侵地鹵器。
- ^ 《史記・卷七十九・范雎蔡澤列傳》:崔杼、淖歯管齊,射王股,擢王筋,懸之於廟梁,宿昔而死。
- ^ 《戰國策・卷十三・齊策六》:王孫賈乃入市中,曰:“淖歯亂齊國,殺湣王,欲與我誅者,袒右!”市人從者四百人,與之誅淖歯,刺而殺之。
- ^ 《新序・卷三・雜事第三》:樂毅謝罷諸侯之兵,而獨圍莒即墨,時田單為即墨令,患樂毅善用兵,田單不能軸也,欲去之,昭王又賢,不肯聽讒。會昭王死,惠王立,田單使人讒之惠王,惠王使騎劫代樂毅,樂毅之趙不歸。燕騎劫既為將軍,田單大喜,設軸大破燕軍,殺騎劫,盡復收七十餘城。
- ^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:君王后死,后勝相齊,多受秦間金玉,多使賓客入秦,秦又多予金,客皆為反間,勸王去從朝秦,不脩攻戰之備,不助五國攻秦,秦以故得滅五國。
- ^ 《戰國策・卷十三・齊策六》:君王后死,后勝相齊,多受秦間金玉,多使賓客入秦,皆為變辭,勸王朝秦,不脩攻戰之備。
- ^ 島崎晋 2019, p. 97.
- ^ 寺田 1997, p. 49.
- ^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:五國已亡,秦兵卒入臨淄,民莫敢格者。王建遂降,遷於共。故齊人怨王建不蚤與諸侯合從攻秦,聽奸臣賓客以亡其國,歌之曰:「松耶柏耶?住建共者客耶?」疾建用客之不詳也。
- ^ 《資治通鑑 秦紀卷七》:齊王建也死於流放之地。王賁自燕南攻齊,卒入臨淄,民莫敢格者。秦使人誘齊王,約封以五百里之地。齊王遂降,秦遷之共,處之松柏之間,餓而死。
- ^ 《戰國策・卷十三・齊策六》:齊王建入朝於秦,雍門司馬前曰:「所為立王者,為社稷耶?為王立王耶?」王曰:「為社稷。」司馬曰:「為社稷主王,王何以去社稷而入秦?」齊王還車而反。即墨大夫聞雍門司馬諫而聽之,則以為可與為謀,即入見齊王曰:「齊地方數千里,帶甲數百萬。夫三晋大夫,皆不便秦,而在阿、鄄之間者百數,王收而與之百萬之眾,使收三晋之故地,即臨晋之關可以入矣;鄢、郢大夫,不欲為秦,而在城南下者百數,王收而與之百萬之師,使收楚故地,即武關可以入矣。如此,則齊威可立,秦國可亡。夫舍南面之稱制,乃西面而事秦,為大王不取也。」齊王不聽。秦使陳馳誘齊王内之,約與五百里之地。齊王不聽即墨大夫而聽陳馳,遂入秦。處之共松柏之間,餓而死。先是齊為之歌曰:「松邪!柏邪!住建共者,客耶!」
- ^ 吉川 2002, pp. 101–106, 「第三章 統一への道‐六国併合‐4」.
参考文献
編集- 島崎晋『春秋戦国の英傑たち』双葉社、2019年。
- 寺田隆信『物語 中国の歴史』中央公論新社、1997年。
- 吉川忠夫『秦の始皇帝』〈講談社学術文庫〉2002年。ISBN 4-06-159532-6。
- 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝』中央公論新社、2016年。