田村秋子
日本の新劇女優(1905−1983)
田村 秋子(たむら あきこ、1905年10月8日 - 1983年2月3日)は、日本の新劇女優。
たむら あきこ 田村 秋子 | |||||
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![]() 『写真近代女性史』(1953年)より | |||||
本名 | 伴田秋子(旧姓・田村) | ||||
生年月日 | 1905年10月8日 | ||||
没年月日 | 1983年2月3日(77歳没) | ||||
出生地 |
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職業 | 女優 | ||||
配偶者 | 友田恭助 | ||||
著名な家族 | 父:田村西男 | ||||
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来歴
編集小説家・劇作家の田村西男の長女として東京市下谷区に生まれる[1]。神田高等女学校卒業。1924年築地小劇場に入り、1925年3月、俳優友田恭助と結婚。結婚後の本名は伴田秋子。1927年「愛欲」などに出演する。1932年友田ともに築地座を結成、1936年解散。
1937年9月6日、夫とともに「文学座」の結成に参加。だが友田はすぐに日中戦争に召集され10月6日に戦没した。文学座は、11月31日、秋子を主役とした旗揚興行を予定していたが、秋子が「遺骨が戻ってくるまでは出演をしない」と拒否して公演は延期となった[2]。
戦後1949年、文学座に名誉座員として迎えられ、自作「姫岩」で舞台復帰し1950年『ヘッダ・ガブラー』に主演、自伝『一人の女優の歩んだ道』(1962)がある。また里見弴が秋子をモデルとして書いた小説が『宮本洋子』(苦楽社 1947)である。作家・豊田正子はその晩年を『花の別れ-田村秋子とわたし』(未來社 1985)に描いている。
その他
編集映画「少年期」「本日休診」での田村秋子の台詞回し等が杉村春子に似ている部分があるが、先輩の田村秋子の演技に後輩の杉村春子が影響されているためであり逆ではない[4]。例えば杉村春子は自伝で築地小劇場分裂後の築地座(1932年-1936年)について「そのころの築地座の女優さんたち、毛利菊枝、清川玉枝、月野道代、滝蓮子、堀越節子のみなさん、それに私、みんながみんな田村さんを目標にしのぎを削ったものでした。」と書いている[5]。
出演映画
編集- 『受胎』(1948年) - 高木ふさ
- 『幸福の限界』(1948年) - 母
- 『女の一生』(1949年) - 木村たき
- 『火山脈』(1950年) - 野口シカ
- 『えりことともに』(1951年) - 河村幸枝
- 『自由学校』(1951年) - 羽根田銀子
- 『少年期』(1951年) - 母
- 『本日休診』(1952年) - 湯川三千代
- 『愛の砂丘』(1953年) - 田島秋子
- 『幸福さん』(1953年) - 花子さん
- 『にごりえ』(1953年) - 齊藤もよ
- 『うちのおばあちゃん』(1955年) - 岡本あさま
- 『美わしき歳月』(1955年) - 祖母
- 『こころ』(1955年) - 未亡人
- 『風前の灯』(1957年) - 佐藤てつ
著作
編集脚注
編集- ^ 田村秋子 コトバンク
- ^ 「文学座」の内容-岸田国士『都新聞』(昭和13年2月8日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p653 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ セリフのうまさが抜群だった---今なお「アウラ」を発する名女優 女優の近代Vol.6福田和也、現代ビジネス、講談社、2012.06.03
- ^ なお田村秋子は「少年期」と「自由学校」で1951年の毎日映画コンクールの女優助演賞を受賞している。
- ^ 東山千栄子・水谷八重子・杉村春子・田中絹代・ミヤコ蝶々『女優の運命;私の履歴書』、日本経済新聞社(日経ビジネス人文庫)、2006年、p.236 (初出は日本経済新聞の連載「私の履歴書」で杉村春子の連載は1968年7月)
関連項目
編集外部リンク
編集- 田村秋子 - 日本映画データベース
- 田村秋子 - KINENOTE
- 田村秋子 - テレビドラマデータベース