由布 惟信(ゆふ これのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将立花氏家老十時連貞安東家忠高野大膳らと並び立花四天王と称される。道雪七家老の第五座。立花氏時代の棚倉藩重臣。

 
由布惟信
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 大永7年(1527年)?
死没 慶長17年6月24日1612年7月22日
改名 熊若丸(幼名)、惟延、惟信、雪下(号)
別名 源兵衛、八郎、孫十郎、源五兵衛尉、源五左衛門、孫六(通称)
官位 美作守上総守
主君 大友氏立花道雪宗茂
陸奥棚倉藩
氏族 由布氏
父母 父:由布惟巍、母:橘氏鑑正女
兄弟 碁晨惟信
由布惟克娘・妙雲(法名)
惟定惟次惟紀田尻宗仙
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生涯 編集

由布惟巍の次子として誕生。元々は大友氏の家臣で豊後国速見郡湯布院城主であったのだが、戸次鑑連に付き従う際に兄・碁晨に家督を譲り、残りの人生を立花氏のために尽くす。「天資英邁にして剛毅也」と伝わる、立花道雪の重臣として六十五回の合戦に参加し六十五ヶ所の傷を受け一番槍一番乗り一番首は数知れず、感状は七十通ほど賜るなど武勇を誇った。家中に小野鎮幸と共に、立花道雪が孫子兵法の「奇正相生」を引用しての奇と正の両翼として立花双翼と称揚され、惟信は正の将を任じた[1][2]

天正8年(1580年)4月27日、博多津東分役職を任され、秀でた政治手腕を発揮した[3][4][5][6]

道雪の遺言で「戦場の地に甲冑着け埋葬せよ」との命に家臣共々が頭を抱えていた時に、殉死しようとする家臣を説得し丁重に埋葬した。道雪死後もその養子の立花宗茂を助け、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍についたため改易された主君の宗茂に随従して江戸に赴いた。慶長8年(1603年)、宗茂が将軍徳川家康に見出されて棚倉藩1万石に封じられると、江戸で将軍に近侍する宗茂に代わって、子の惟次と共に藩内の行政を担当した。奥州赤館で歿した。享年86歳[2]。生涯三十数度の戦場で一度の負けもなかったという[7]

戦歴 編集

天文15年(1546年)の秋月文種の一度目の謀反の時には、戸次鑑連に従い大友義鑑の命令を受け、佐伯惟教臼杵鑑速吉弘鑑理など大友諸将と共に筑前古処山城へ出陣、7月19日、同僚の安東連善と共に先登の戦功を挙げて感状を賜った[8]

天文23年(1554年)11月20日には、大友義鎮の命令を受けた鑑連に従って同僚の安東家忠、安東連忠小野信幸らと共に豊後木原で埋伏、相良氏へ護送中の菊池義武自害させることにも功を立てた[9]

弘治2年(1556年小原鑑元、本庄新左衛門尉統綱、中村新兵衛長直(名は鎮信とも)、賀来紀伊守惟重らが起こした謀反(姓氏対立事件)で主君鑑連の出陣に従い、5月19日、同僚の高野大膳、高野九郎兵衛、足達左京、安東家貞らと共に奪斗比類なき働きをもって鑑連から感状を賜う[10]

弘治3年(1557年)には毛利元就と通じた秋月文種が二度と反乱を起こした。7月11日、再び先登の戦功を挙げて感状をもらった[11]。同年の8月23日、筑紫惟門の討伐でも活躍して戦功を立てた[12]

永禄5年(1562年)7月13日には、豊前国大里において対毛利氏の柳浦の戦いに一番槍の戦功を挙げ、その騎馬疾駆や縦横馳突の活躍ぶりを敵味方とも驚かせたと伝わる[13][14][1][2]

永禄8年(1565年)5月、立花山崖下の戦いで立花鑑載配下の猛将・弥須図書助を討ち取って、友軍を鼓舞した[1][2][15]

永禄10年(1567年)7月7日対高橋鑑種の宝満城・九嶺の戦い[16][17][18][19]、8月14日対秋月種実の瓜生野の戦い[20][21]、9月3~4日の休松の戦い[22][23][24]永禄11年(1568年)7月第二次立花鑑載討伐[25][26]、8月対原田隆種の第一次生松原の戦い[27][28]永禄12年(1569年)5月対毛利軍の多々良浜の戦いなどでも奮戦した[7]

天正6年(1578年)の耳川の戦い以降宗像氏麻生氏原田氏秋月種実筑紫広門らと戦うことになる。[注釈 1]

天正12年(1584年)の沖田畷の戦い龍造寺隆信が討ち死にしたことにより、立花道雪は高橋紹運や朽網鑑康と共に筑後の支配を回復すべく戦い、道雪配下の備隊大将の1人として同僚の小野鎮幸らと共に数々の戦功を挙げる。[62][63]

道雪の歿後、立花家の跡を継ぐ立花宗茂に仕え、天正14年(1586年)8月島津軍と抗戦し、立花山城籠城や高鳥居城攻めなどでも殊功を立てた[2]

天正15年(1587年)宗茂が柳川大名になった際、3500石の俸禄を受領し、酒見城主となった。9月、肥後国人一揆討伐にも従軍、同じ老齢であった十時惟由と共に先鋒に任じられて、疾駆の勢いで敵を奇襲突破し、大田黒城攻めで再び一番乗りの戦功を挙げた[64]

系譜 編集

  • 父:由布惟巍(1509-1567)(永禄十年七月、宝満城の高橋鑑種討伐に参戦した後、十月九日に死亡。)
  • 母:橘氏
  • 室:由布下野守惟克の娘・妙雲(法名)
  • 兄:由布碁晨 - 掃部介(永禄十二年五月十八日、多々良浜の戦いに戦死。)
  • 子女
    • 男子:由布惟定 - 宮内丞(天正十二年十月二十八日、筑後草野氏の発心岳城攻めで戦死。)
    • 男子:由布惟次(1558-1633) - 五兵衛、七右衛門、美作守
    • 男子:由布惟紀 - 彦介(朝鮮派兵で戦死。)
    • 女子:田尻掃部介宗仙

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 12月3日柴田川の戦い[29][30][31][32]、天正7年(1579年)3月16日~18日八嶽の戦い[33]、9月下旬第四次生松原の戦い・高祖山城攻防戦[34][35][36][37]、11月3日血風奈須美の陣[38][39]、12月宗像合戦[40][41]、天正9年(1581年)11月12~13日清水原の戦い[42][43][44][45][46][47][48][49][50][51][52][53]、天正10年(1582年)3月16日許斐岳・吉原・八並・西郷表の戦い[54][55][56][57]、4月16日岩戸の戦い[58][59][60][61]

出典 編集

  1. ^ a b c 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳川人物小伝(三)由布雪下 862~863頁
  2. ^ a b c d e 『柳川藩叢書』第一集 (九五)略伝小伝(二十)由布惟信小伝 252・254頁
  3. ^ 『豊前覚書』博多史年表 P.225
  4. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (12) 戸次道雪書状写 博多東分載判之儀、乍斟酌先々應上意候之条、每事堅固之取沙汰肝要候、委細池邊六郎次郎可申候、恐々謹言、四月廿七日、由布美作入道殿 雪下事 339頁
  5. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (13) 戸次道雪・統虎(宗茂)連署役職預ヶ状写 博多津東分役職之事預進之候、被任前々模堅固之裁判肝要候、乍勿論不可有他之妨候、為存知候、恐々謹言、九月五日、由布美作入道殿 雪下事 339~340頁
  6. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.47~48
  7. ^ a b 『由布安芸家系図』由布惟信戦功註伝
  8. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (5) 戸次鑑連(道雪)感状写 於今度古所山最前攻登、小者一人被疵候、粉骨之次第感悅候、必以時分可顕志候、恐々謹言、七月十九日、由布源五左衛門尉殿 雪下事 338頁
  9. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (8) 戸次鑑連(道雪)感状写 於今度木原碎手、被遂分捕候事、忠貞無比類、必追而可感之候、恐々謹言、十一月廿日、由布源五左衛門尉殿 雪下事 339頁
  10. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118由布文書 (5) 戸次鑑連(道雪)知行預ヶ状写 今度小原本庄以下之衆御成敗之砌、最前切入、遂分捕被疵候、粉骨感悅候、近年度々被致分捕、殊数ヶ所被疵候事、忠貞無比類候、當時闕地等依無差儀、然々不顕志由、口惜候、先以緒方庄之内小迴四貫分之事預進之候、可有知行候、恐々謹言、弘治弐年辰丙九月四日 由布源五左衛門尉殿 雪下事 339頁
  11. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (4) 戸次鑑連(道雪)感状写 今度秋月文種於宅所最前切入、剩数ヶ所被深手、粉骨之次第高名無比類候、必以時分可賀之候、恐々謹言、七月十一日、由布源五左衛門尉殿 雪下事 338頁
  12. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (6) 戸次鑑連(道雪)感状写 今度於筑紫宅所、別而被勵粉骨、数ヶ所被疵候、忠貞之次第、感悅無極候、必以時分可顕志候、恐々謹言、八月二十三日、由布源五左衛門尉殿 雪下事 338頁
  13. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118由布文書(10)戸次鑑連感状写 永祿五年七月十三日於大里津柳浦合戦之刻、被碎手候之趣誠驚目候、剩被疵候忠儀無比類候、必闕所次第可顕志候、恐々謹言、七月廿四日 由布源五兵衛尉殿雪下(惟信)339頁
  14. ^ 『福岡県史資料. 第9輯』[1]
  15. ^ 筑後将士軍談 卷之第九 立花城度々合戦之事 P.224~225
  16. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61立花文書『戸次道雪譲状』358頁
  17. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.30~34
  18. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(七)筑前寶滿山 永禄十年七月七日 P.4
  19. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.22~23
  20. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.34~35
  21. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(八)筑前瓜生野 永禄十年八月十四日 P.5
  22. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.35~38
  23. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.23~24
  24. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(九)筑前休松 永禄十年九月三日 P.5~7
  25. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.42~44
  26. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一〇)筑前立花山 永禄十一年七月四日 P.7
  27. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.45~47
  28. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一一)筑前生の松原 永禄十一年八月二~五日 P.7~8
  29. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.94
  30. ^ 紹運の智略「柴田川の戦い」
  31. ^ 吉永正春『筑前戦国史』柴田川の戦い p.103~106
  32. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.45
  33. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.85~86
  34. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.89~92
  35. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一八)筑前高祖 天正九年 九月 P.11
  36. ^ 大友興廃記、戸次軍談の伝える「生の松原合戦」
  37. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 筑前国所々合戦之事 P.324~325
  38. ^ 吉永正春『筑前戦国史』血風奈須美の陣 p.137~138
  39. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 筑前国所々合戦之事 P.324
  40. ^ 「大友興廃記」巻第十七 宗像合戦之事
  41. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.121
  42. ^ 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』P.164~465
  43. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十三 小金原合戦之事 P.351~353
  44. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.117~122
  45. ^ 『筑前國續風土記』 卷之第二十六 古城古戦場 三 鞍手郡 小金原 P.6~18
  46. ^ 『立花遺香』 P.13~15
  47. ^ 『宗像郡誌. 中編 宗像記追考』本書第十六 小金原合戦之事 P.622~626
  48. ^ 小金原の戦い「立花道雪激怒」「宗像氏貞苦悩」
  49. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.90~92
  50. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(二一)筑前清水原 天正九年 十一月十三日 P.12
  51. ^ 吉永正春『筑前戦国史』小金原の戦い p.155~163
  52. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.59~60、P.63
  53. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三四 大友義統軍忠一見状 天正九年十一月十三日、於山東宗像表合戦之砌、戸次伯耆入道道雪家中之衆、或分捕高名、或被疵戦死之着到、令披見訖、P.351~357。
  54. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.122~123
  55. ^ 吉永正春『筑前戦国史』吉原・八並の戦い p.163
  56. ^ 『宗像郡誌. 中編 宗像記追考』本書第十六 小金原合戦之事 P.628~629
  57. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.47
  58. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.124
  59. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(二二)筑前岩門庄久邊野 天正十年 四月十六日 P.12
  60. ^ 吉永正春『筑前戦国史』岩戸合戦 p.165~167~
  61. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.64
  62. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (15) 大友義統感状写 去年以来道雪依粉骨、其方別而勵軍忠、馳走之由、感入候、弥可抽貞心肝要候、必取鎮可賀之候、恐々謹言、九月六日、由布美作入道殿 雪下事 340頁
  63. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (15) 大友義統感状写 去月十九以道雪同心凌敵中至黒木表着陣已来、於在々所々軍労、殊其方僕従弥介分捕之由感入候、弥可勵馳走事肝要候、恐々謹言、九月十一日、由布美作入道殿 雪下事 340頁
  64. ^ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』四十 統虎 有動氏を破る P.114~118

関連項目 編集

釣り野伏せ