畢 沢宇(ひつ たくう)は中華民国の軍人・政治家。祖籍は河北省寧津県(現在は山東省に属する)。

畢沢宇
プロフィール
出生: 1893年光緒19年)
死去: 1968年民国57年)1月8日
中華民国の旗 中華民国台北市
出身地: 吉林将軍管轄区吉林副都統管轄区長春庁
職業: 軍人・政治家
各種表記
繁体字 畢澤宇
簡体字 毕泽宇
拼音 Bì Zéyŭ
ラテン字 Pi Tze-yü
和名表記: ひつ たくう
発音転記: ビー ゾーユー
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事跡 編集

15歳で長春府中学を卒業する。1911年宣統3年)冬に、辛亥革命の間隙を衝いて黒竜江省で仲間たちと挙兵してハルビンを占領しようとしたが、失敗して獄に入れられた。

翌年釈放され、奉天公立法政学校に入学した。1915年民国4年)卒業後、呉佩孚の下で参議処処長をつとめた。しかし、呉が中国国民党北伐に敗北して下野すると、畢沢宇もやはり下野した。

1937年(民国26年)に日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、畢沢宇は冀南で遊撃隊を組織した。1939年(民国28年)2月、察哈爾省政府委員兼民政庁長(当時の主席は石友三)に抜擢されている。4月、重慶に赴き、国民党中央訓練班第3期で訓練を受けた。

1940年(民国29年)12月、国民革命軍第69軍軍長に任ぜられる。さらに翌年8月まで代理察哈爾省政府主席となった。1943年(民国32年)5月、河北省政府委員に任ぜられている。

日中戦争勝利後は吉林省臨時参議会議長となった。1948年(民国37年)3月には行憲国民大会代表に当選する。8月、ハルビン市市長に任ぜられた。国共内戦で国民党が敗北すると台湾に逃れ、引き続き国民大会代表を務めている。

1968年(民国57年)1月8日、台北市で死去。享年76。

参考文献 編集

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
   中華民国国民政府
先代
石友三
察哈爾省政府主席(代理)
1940年12月 - 1941年8月
次代
馮欽哉