白江成定
白江 成定(しらえ なりさだ)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣秀次の家臣。別名に「白井範秀」(しらい のりひで)。
時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 文禄4年(1595年)7月 |
別名 | 白井範秀、通称:権太夫 |
官位 | 備後守 |
主君 | 豊臣秀次 |
氏族 | 白江氏 |
妻 | 有り |
略歴編集
豊臣秀次に仕え、天正12年(1584年)の長久手の戦いで水野勝成と戦い秀次と共に敗走した。秀次が関白に就任すると6万石の知行地を賜った。秀次に謀反の嫌疑がかかると弁明に奔走したが叶わず、秀次は高野山に追放され自刃を命じられた(秀次事件)。成定は高野山を下りて、かねて昵懇だった京の四条の大雲院貞安寺に一切を話し殉じて自刃した。
また、室は成定自刃の後「心をも 染めし衣のつまなれば おなじはちすの 上にならばん」と辞世の句を残し四条道場で後を追って自刃した。
出典編集
- 『古今武家盛衰記』
- 『甫庵信長記』