皇位継承問題
皇位継承問題(こういけいしょうもんだい)は、日本の天皇の位(皇位)を継承(皇位継承)しうる人数が、2000年代以後に極端に少数になったことに起因する問題。関連事項に皇室典範問題(こうしつてんぱんもんだい)、女系天皇問題(じょけいてんのうもんだい)がある。


平成16年(2004年)、小泉純一郎内閣総理大臣の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が設置されたことにより関心が高まった。以降、平成18年(2006年)の悠仁親王の誕生と令和3年(2021年)菅義偉内閣による『天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議』の開催を経て皇位継承資格者の少なさを解消する方法について、議論が続いている。
概要 編集
皇祖神とされる女性神の天照大神(左)と(初代神武天皇までに至る)神代の皇室系図(右)。
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日本の皇室において、「天皇としての皇位継承は、初代天皇[1]から繋がる男系(父系)の者がこれを継承する」という原則によってなされてきたとされる。(万世一系)
「男系(だんけい)」または「父系(ふけい)」とは、該当人物から父方の先祖を辿ってゆくと歴代天皇、究極には初代天皇に辿り着くことを意味する(該当人物本人の性別はここでは関係しない)。この原則は、明治時代以降に皇室に関する法が皇室典範(旧法、現法)として成文化された際にも引き継がれ、以下の条文が明記されている。
つまり、現行の制度上において皇位継承が断絶することなく継続していくには、「男性皇族(親王および王)が配偶者女性との間に、男児を出産すること」が前提条件である。言い換えると、男児が一人も誕生しない状況が数十年続き、出産に適した年齢(もしくはそれ以下の年齢)の男性皇族とその配偶者女性が不在になれば、将来的には皇位継承者は不在になり、皇室が自然消滅(皇統断絶)することになる。平成中期に実際にこの事象が発生し、皇統断絶の危機が発生したことにより、議論が行われるようになった(後述)。
2000年代以後顕著になったこの問題は、「1947年(昭和22年)10月14日の11宮家51名の皇籍離脱」に端を発している。
- 問題の解決策
この問題が発生したときの解消策として、論理的には二つの主な対策が考えられうる。実際に、平成中期の皇統断絶の危機の際にもこの両案が議論の俎上に上がった。
- 「初代天皇の男系子孫」の原則を維持したまま、候補者の範囲を拡大する。具体的には、過去に皇籍離脱した男性およびその男系(父系)子孫(いわゆる「旧皇族」とその男系/父系子孫)を皇籍復帰(ないし皇籍取得)させ、男系(父系)継承を維持する。
- 「初代天皇の男系子孫」の原則を「天皇の子孫」へ緩和する。すなわち、 歴史上まったく前例のない男系(父系)以外の皇位継承(いわゆる女系天皇・母系天皇)を認める。
以下、この両案の概要について記述する。
男系維持論 編集
旧宮家・皇族の皇籍復帰論 編集
歴史的には、天皇と遠縁の男性皇族が皇籍を離脱(臣籍降下)して臣下(民間人)となった例は多い。彼ら(離脱した本人及びその男系子孫、一般的に「旧皇族」または「旧宮家」と呼称される)は、初代天皇の男系/父系の血筋を有している(皇統に属する)ことから、「(彼らが)皇籍復帰することにより、皇位継承者の将来的な不足を回避するべきだ」という案がある。
臣籍降下による旧皇族の誕生は歴史的には不断に行われてきたが、平成後期の皇位継承問題の議論にあたっては特に、昭和22年(1947年)に離脱した者たちを指すことが多い。特にこれらの旧皇族が重要視される理由は、以下の点である。
- 旧皇族の前身である伏見宮は室町時代以降、世襲親王家(世襲宮家)として歴代にわたり皇位継承権を有してきた血筋、家柄であること
- 旧皇族の前身である伏見宮は現皇室の出身本家であり、持明院統の正嫡であること(「室町時代の一皇族の生涯」講談社学術文庫 2002)
- 歴代の旧皇族(初代天皇の男系子孫)の中で、皇籍離脱したのが一番最近であるため。(日本国憲法と同日に制定された現行皇室典範の下で皇族であったため)
- 皇籍離脱したのが第二次世界大戦の敗戦(日本の降伏)後の混乱期であり、連合国軍占領下の日本でのGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の指令によって皇室財産が国庫に帰属され、経済的に従来の規模の皇室を維持することが不可能となったために、やむ無く皇籍を離脱したという経緯であったため。
- 皇籍離脱に際し、昭和天皇は「万が一にも皇位を継ぐときが来るかもしれないとの御自覚の下で身をお慎みになっていただきたい」との考えを伝えており、皇族との間での親睦団体である「菊栄親睦会」を創設して交流を続けるなど、皇籍復帰の可能性が当初から考えられていたため[2]。
- 現皇族との間に姻戚関係があり、女系では近しい親族関係にある家も存在する。
このように、皇室の成員、天皇の属性について、従来の原理原則(男系)を守ったうえで、現皇族の外の者の潜在的な皇位継承権を復活させようというのが、旧皇族復帰論の論旨である。
- なお、旧皇族が臣籍降下前に公布された現行皇室典範第二条二項の「最近親の系統の皇族」とは旧皇族のことを指しており、法的経緯を踏まえると、旧宮家の男性を皇位継承の「特別な有資格者」とみなすことができるという法的見解もある[3]。
皇別摂家の復帰について 編集
更に、別の復帰対象者(旧皇族)として、いわゆる皇別摂家による皇位継承の可能性なども言及されることがある[4]。
旧皇族以外にも男系の子孫は数多くいるが、その中でも18世紀の関白・鷹司輔平は閑院宮家から鷹司家の養子として臣籍降下しており、現皇室との男系の近さでは、旧皇族よりも近い。
しかし、多くの皇籍復帰賛成論者は皇別摂家の復帰を斥けている。理由は、以下の点である。
- 鷹司輔平など皇別摂家の男系先祖たる皇子(男性皇族)が臣籍降下したのは、約260年前の昔の出来事である(⇔旧皇族と較べると、臣籍降下してからの世代が大きい)。
- 嗣子のない摂家の養子となったのだから、藤原氏の子孫であって皇別とは言えない。藤原氏および中臣氏は神別(始祖をたどると、皇室から分かれた家ではない)であり、藤原氏には皇位継承資格はない。皇族となるには、血筋が皇胤かどうかだけでは駄目で、家柄、家格も必要であるが、摂家や清華家は臣下の家柄である。
- 皇別摂家が皇位継承権を有したことは歴史上一度もない。
女系天皇論(母系天皇論) 編集
愛子内親王
女系天皇(じょけいてんのう)または母系天皇(ぼけいてんのう)とは、男系(父系)でない人物が天皇となることを指す。
具体的には、現状では女性皇族(内親王および女王)が民間の男性と結婚したとき、従来ならばその時点で女性皇族は皇籍離脱、相手の男性も皇族にはならず、間に生まれた子供およびその子孫も民間人のままである。これを改め、女性皇族は引き続き皇族となり、逆に相手の男性が新たに皇族となり、間に生まれた子供およびその子孫も皇族であり、場合によっては皇位も継承する、というものである。
この時、女性皇族は結婚後の皇籍離脱有無にかかわらず初代天皇の男系子孫であるが、彼女と民間人男性の間に生まれた子供は、男系では民間人男性の系統になるため、民間人男性が初代天皇の男系子孫でなければ、初代天皇の男系子孫ではない。そのため、この子供(あるはその子孫)は、従来の初代天皇男系の血統(皇統)に属さない、新しい血統の皇族(いわゆる「女系皇族」)になる。更に、将来的に皇位を継承した場合は、史上初めて、初代天皇の男系子孫ではない天皇(女系天皇)が誕生することになる。
このように、皇室の成員、天皇の属性について、従来の原理原則(男系)を改め、現皇族およびその子孫の中で皇位継承権の付与の条件を緩和しようというのが、女系天皇論の論旨である。
議論の推移 編集
昭和22年(1947年)10月24日、皇族の大半が皇籍を離脱したことによって皇室の成員が大幅に減少した。更に、昭和40年(1965年)に礼宮文仁親王が誕生して以降、昭和後期から平成中期にかけて、皇室に男児が一人も誕生しなかったことにより、上述の皇統断絶の危険性が発生した[注釈 1]。平成16年(2004年)末に公の議論が始まった段階で、男性皇族の最年少の文仁親王は39歳であった。
- 2004年(平成16年)12月31日時点での皇室系図(男系/父系)
※名前右の()内に当時の年齢、名前下に当時の皇位継承順位併記。
第123代天皇 大正天皇(故) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第124代天皇 昭和天皇(故) | 秩父宮 雍仁親王(故) | 高松宮 宣仁親王(故) | 三笠宮 崇仁親王(89) (第4位) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
男児なし | 男児なし | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第125代天皇 明仁(71) | 常陸宮 正仁親王(69) (第3位) | (三笠宮) 寬仁親王(58) (第5位) | 桂宮 宜仁親王(56) (第6位) | 高円宮 憲仁親王(故) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
男児なし | 男児なし | 男児なし | 男児なし | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
皇太子 徳仁親王(44) (第1位) | 秋篠宮 文仁親王(39) (第2位) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
男児なし | 男児なし | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
政府の議論(平成) 編集
- 女系天皇へ向けた有識者会議の議論
愛子内親王誕生後、悠仁親王誕生前の時点であった平成16年(2004年)12月27日、政府は皇位継承問題について、皇室典範の改正(女性天皇及び女系天皇を認めること)までを視野に入れて検討するための有識者による懇談会の設置を決める。翌平成17年(2005年)1月26日、小泉純一郎首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」(以下、「有識者会議」)を設置し議論を開始(吉川弘之座長)。会合では、皇位継承原理の案として以下の4案が提示された。
- 第一子優先 - 男女にかかわらず、直系の長子が皇位を継ぐ。
- 兄弟姉妹間で男子優先 - 姉と弟では、弟が優先して皇位を継ぐ。
- 男系(父系)男子優先 - 従来の「皇統に属する男系(父系)の男子」が優先される。
- 男子優先 - 男系女系(父系母系)に関わらず、男子が優先される。
7月、有識者会議は中間報告を発表し、皇位継承範囲の拡大を提唱するとともに「女性天皇及び女系天皇の容認」案及び男系継承の伝統を守る立場から「旧皇族の皇籍復帰による男系男子継承の維持」の2案を具体案として提示した。有識者議会はあくまで「私的諮問機関」であり法的拘束力は有さなかったが、小泉首相が「その最終報告を尊重する」と表明していたため動向が注目された。
10月、有識者会議は女性天皇および女系天皇(母系天皇)容認の最終指針を打ち出すための調整に入った事が明らかになった。10月25日、有識者会議は全会一致で皇位継承資格を皇族女子と「女系皇族」へ拡大することを決めた。吉川座長は同日の記者会見において「現行の皇室典範で安定的な皇位継承ができるかどうかを議論したが、将来、後継者不足が生じることは明らかだ。憲法で定められた皇位の世襲を守るのが、女子、女系への拡大だ」とその理由を説明した[注釈 2]。小泉首相は同日夜の記者会見で、皇室典範改正の方向ですでに準備に着手していると述べた。
11月24日、有識者会議は、象徴天皇制の安定的な維持のため、皇位継承資格を女性や天皇・皇族の女系子孫に拡大することなどを求める最終報告書をまとめ、首相に提出した。同会議では旧宮家の男系男子を皇族の養子とする案について「どの方の養子となるかにより継承順位がかわることになるので、当事者の意思により継承順位が左右されることになる」「どうしても当事者の意思が介在してしまい、一義性に欠けることになる」など皇位継承の安定性の観点から否定的な意見が強く、また、男系の血統の保持についても「男系男子だけによる継承が行き詰るということは、はっきりしている」などの消極的意見が大勢を占めた。この報告書の背景には「女性天皇・女系天皇を容認して、皇位継承者の範囲を拡大すべき」とする考えがある。
この年の11月30日、男性皇族で最年少の文仁親王が40歳になり、30代以下の男性皇族が不在になった。
寬仁親王は、従来より女系天皇容認の動きに反対であり、2006年(平成18年)1月3日付の毎日新聞、雑誌『文藝春秋』2006年(平成18年)2月号のインタビューでも同様の見解を表明していたが、そのような見解は有識者会議の結論には反映されず、平成18年(2006年)の通常国会において、有識者会議での議論を基に、女系天皇への道を開くことになる皇室典範の改正が議論される予定であった。しかし、同年2月、文仁親王妃紀子の第3子懐妊が発表され、皇位継承問題についての議論は先送りされる。
同年9月6日、秋篠宮妃紀子が第1男子(1男2女のうち第3子)の悠仁親王を出産。これにより、皇位継承問題についての大前提が変わることとなった。同時期、小泉純一郎首相は自由民主党総裁の任期満了とともに退任し、後任の安倍晋三首相は「静かに慎重に論議していくことが大切だ」と述べ、有識者会議の報告書を基にした女系天皇の議論は白紙撤回された。
- その後の主な出来事
平成24年(2012年)、野田内閣(野田佳彦首相)は女性宮家の制度についての検討を行った。これは、皇族の減少により皇室の活動(公務など)に支障が発生するのを回避するため、一般人と結婚した女性皇族が皇籍を離脱せず、皇族の立場で引き続き公務を行えるようにするものである。この議論は、野田内閣が年内に内閣総辞職したため、本格的な議論にはならなかった。
平成31年(2019年)3月20日、参議院財政金融委員会質疑において大塚耕平(国民民主党)が皇位継承問題について政府の方針を質したところ、安倍晋三首相は「男系継承が古来例外なく維持されてきたことの重みを踏まえながら、慎重かつ丁寧に検討する」という旨の答弁をした。また、東久邇家の男系男子の有無の確認を質問された野村善史宮内庁長官官房審議官は「子孫につきましては、具体的に承知していない」と答弁した。
令和元年(2019年)5月1日、前日4月30日の天皇の退位等に関する皇室典範特例法施行により第125代天皇明仁は譲位して上皇となり、皇太子徳仁親王が皇位を継承して天皇となり、その弟の秋篠宮文仁親王が皇位継承順位第1位(皇嗣)となった。翌令和2年(2020年)11月8日、文仁親王は立皇嗣の礼により正式に皇嗣(皇太子に準ずる)となった。
政府の議論(令和)「女系天皇の否定」 編集
令和2年(2020年)に執り行われた立皇嗣の礼の後、政府は安定的な皇位継承策を巡り、有識者会議を設置する方向で検討に入った[9]。だが加藤勝信官房長官は令和2年(2020年)12月14日の記者会見で、安定的な皇位継承策の議論の在り方に関し「静かな環境で検討が行われるよう配慮する必要がある」と強調し、急がない構えを強調し[10]、令和3年(2021年)3月23日に、菅義偉内閣の下、首相官邸において、安定的な皇位継承の在り方を検討する有識者会議の初会合が開かれた[11]。
令和3年(2021年)、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議が開催された。メンバーは以下の6名[12]。
- 清家篤(座長[13]) - 日本私立学校振興・共済事業団理事長
- 大橋真由美 - 上智大学法学部教授
- 冨田哲郎 - 東日本旅客鉄道取締役会長
- 中江有里 - 女優、作家
- 細谷雄一 - 慶應義塾大学法学部教授
- 宮崎緑 - 千葉商科大学国際教養学部教授
同会議の報告書では、2004年(平成16年)の小泉内閣時代に行われた「皇室典範に関する有識者会議」における皇位継承の議論の内容は全面的に更新され、①内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する、②皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とする、③皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること、の三案が政府案として決定された。この政府案をもとに、各党へ議論の要請が行われている。
2023年現在、日本維新の会のみが意見書を提出しており、政府の有識者会議が示した、旧皇族の男系男子を養子に迎える案を実現すべきだとしている。
令和5年 (2023年) 11月15日、内閣法制局の木村陽一第1部長は衆院内閣委員会で、皇統に属する一般国民から男系男子を皇族とするのは、門地(家柄)による差別を禁じた憲法14条に抵触しないとの見解を示した。安定的な皇位継承策を巡り浮上する皇族の養子縁組を認め、旧皇族男系男子が皇族復帰する案に関し「憲法14条の例外として認められた皇族という特殊な地位の取得で、問題は生じないと考えている」と答弁した。
宮内庁の議論 編集
小泉純一郎内閣時代の有識者会議と同時期、宮内庁においても皇位継承問題について議論が行われていた。
宮内庁案では、「男系男子をもって継承することを原則とするが、やむを得ない場合のみ女性天皇・女系天皇を容認する」という内容であった。
言論界の議論 編集
小泉純一郎内閣時代の有識者会議の結論に対しては、言論界の一部からは強い反発があり、特に女系天皇も容認しようとする同会議の姿勢に対しては、「なし崩し的である」との強い疑問の声も上がった。
有識者会議には、単なる男女平等論調の観点から意見を述べた委員が複数存在したことも判明し、また「結論を急ぎすぎている」と同指針に対する批判も相次いだ。
平成17年(2005年)10月6日、「皇室典範問題研究会」(代表:小堀桂一郎)が結成され、「男系継承の皇室の伝統を維持するために、旧皇族の復帰を検討するべき」「現在の皇族の方や、旧皇族の方からも意向を伺うことが大事」等の声明を発表した。同年10月21日には女系天皇の容認に反対する「皇室典範を考える会」(代表:渡部昇一)が結成された。これらの識者は、「旧皇族の皇籍復帰によって男系の皇統を維持すべきだ」と主張している。
論点・備考 編集
以下、皇位継承を巡る議論について記載する。
男系継承の起源について 編集
- 男系継承が定められた古例としては、3世紀の崇神天皇(稲荷山古墳鉄剣銘文より)[14]や5世紀の「倭の五王」の時代[15]にさかのぼる可能性が指摘されているが、現在の通説では、確実に『万世一系』の皇統が確立されたのは6世紀の欽明天皇以降とされている[16] 。
- 奈良時代以降、即位の際の宣命に表れてきたいわゆる「不改常典」が男系継承を指していた可能性がある。
- 『禁中並公家諸法度』本文第六条にも「女縁其家家督相續、古今一切無之事」と女系継承を禁止した条文が認められる[17]。また、同法度の注釈書『慶長公家諸法度』にも、皇統は男系(の男子)によって紡がれることが「古からの定め」と記されている[18][19]。
天皇・皇族による本問題への言及 編集
日本国憲法第3条、第4条には「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う」「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」とあり、天皇が政治的案件に対する具体的発言を公にすることは控えられるようになっている。皇族(皇族とは皇室に属する者の内、天皇および上皇以外の者を指す)が発言することについて規定している法律はないが、憲法第4条の規定は皇族にも及ぶとの解釈が一般であり、皇族自身も戦後は政治へ介入することを極力避けてきた。そのため、皇族、ましてや天皇が皇位継承問題について具体的な意見を述べることは、極めて少なく、一部の皇族を除いては、具体的な解決方法にまで踏み込んで言及することは避けることが多い。主な発言について、時系列順に記載する。
- 昭和21年(1946年)、三笠宮崇仁親王は皇室典範制定時、旧典範と同様、天皇の生前退位を認めない点について「自由意志による譲位を認めていない、つまり天皇は死なれなければその地位を去ることができないわけだが、たとえ百年に一度ぐらいとしても真にやむをえない事情が起きることを予想すれば必要最小限の基本的人権としての譲位を考えた方がよいと思っている」と異議を唱えた。また、同年11月3日にまとめた私案「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」で、「『死』以外に譲位の道を開かないことは新憲法第十八條の『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない』といふ精神に反しはしないか?」と疑問を呈している[20]。
- 平成13年(2001年)、宣仁親王妃喜久子は愛子内親王誕生の折、女性天皇の即位を「不自然な事ではない」と容認する意見を雑誌『婦人公論』に寄稿した。しかし、女系天皇については明言しなかった。
- 平成17年(2005年)、寬仁親王は、自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」の会報で、「プライヴェート」な形式と断った上で「歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と女系天皇への反対姿勢を表明した[21]。
- 寬仁親王は「万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代・神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」と主張し、「陛下や皇太子様は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりません」「国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、2665年の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、いつの日か、『天皇』はいらないという議論にまで発展するでしょう」と結んで、女系天皇容認の動きにこれまでの歴史と伝統を尊重しないとする強い懸念を表明した。
- また、男系継承を維持するための方法として、歴史上実際に取られたことのある以下の4つを挙げている[22]。
- 皇籍離脱した旧皇族を皇籍に復帰させる。
- 皇族女子(内親王および女王)に旧皇族の男系男子から養子を取れるようにし、その方に皇位継承資格を与える。
- 廃絶になった秩父宮や高松宮の祭祀を、伏見宮家の子孫である旧皇族の男系男子が継承し、宮家を再興する。これは、明治時代に現皇室の祖先である光格天皇の実家である閑院宮家が絶えた際、伏見宮家から養子を迎え継承した先例があり、何も問題がなく、最も順当な方法である。
- 昔のように「側室」を置く。自分(寬仁親王)としては大賛成だが、国内外共に今の世相からは少々難しいかと思う。
- また、寬仁親王は皇位継承問題について「三笠宮一族は、同じ考え方であるといえる」と、父・三笠宮崇仁親王と母の百合子妃も歴史と伝統に反する皇室典範改正に反対していることを初めて明らかにした[23]。また、寬仁親王は、崇仁親王が2005年10月、宮内庁の風岡典之次長を呼んで、皇室典範改正に向けた拙速な動きに強く抗議したことを紹介した[23]。また、皇室典範改正は「郵政民営化や財政改革などといった政治問題をはるかに超えた重要な問題だ」と指摘するとともに、自身の発言に対して宮内庁の羽毛田信吾長官らが「正直、困ったな」「皇族の立場を改めて説明する」などと重ねて憂慮を表明していることに関しては、「私がこういうインタビューに応じたり、かなり積極的に発言しているのは国家の未曾有の大事件と思うので、あえて火中の栗を拾いに行っているような嫌いがあります」と述べ、女系天皇容認の動きに対抗する意思を明確にした。
- 平成17年(2005年)12月19日、天皇明仁は、天皇誕生日に際して行われた記者会見において、記者から「これまで皇室の中で女性が果たしてきた役割を含め、皇室の伝統とその将来」について事前質問があり、「皇室の中で女性が果たしてきた役割については私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思います」と述べたが、「皇室典範との関係で皇室の伝統とその将来」については回答を控えた[24]。
- このように、天皇は皇位継承問題について一切態度を明らかにしていない。なお、記者の質問に対し天皇は「国会の議論に委ねることになる」のあとに、必ず逆接的表現で、「意見を聞いてもらいたい」と付け加えられている。これに対して、プライベートで付き合いがある人物など(いわゆる「ご学友」)たちが、週刊誌上やワイドショーに登場し、「学生時代から開明だった陛下は女性・女系天皇にも賛成しているだろう」などのコメントをしているが、いずれもあくまで部外者による推測の域を出ない。
- なお、この記者会見では事前質問の後に記者からの関連質問が予定されていたが、宮内庁は「時間の都合」を理由に会見を打ち切った。これに対して記者会は22日に抗議文を提出し、宮内庁は「思い違い」で会見を打ち切ってしまったことを謝罪する一幕があった。宮内庁総務課報道室は「天皇陛下におかれては、記者会見で、皇位継承制度は法律に基づく制度の問題で、国会で議論されることであり、発言を控えたいとお答えになっています」と発表している。
- 平成18年(2006年)2月21日、皇太子徳仁親王は誕生日に際しての記者会見にて、記者からの「皇室典範に関する有識者会議が最終報告書を提出し、女性・女系天皇を容認する方針が示されました。今後の皇室のあるべき姿に関する考えや敬宮愛子様の将来について、父親としてのお気持ちをお聞かせください」という質問に対して、「皇室典範に関する有識者会議が最終報告書を提出したこと、そしてその内容については、私も承知しています。親としていろいろと考えることもありますが、それ以上の発言は控えたいと思います」と述べた。
- 平成18年(2006年)10月20日、皇后美智子は誕生日に際して宮内記者会から文書でインタビューを受けた。「次々代を担う女性皇族にどのような役割や位置付けを期待するか」という質問を寄せたが、皇后は文書による回答で「皇室典範をめぐり、様々に論議が行われている時であり、この問に答えることは、むずかしいことです」と述べ、回答を控えた[25]。
- 平成22年(2010年)、彬子女王は季刊誌『皇室 Our Imperial Family』第48号(平成22年秋号)インタビューにおいて、「男系継承の伝統を大事にしていかねばならない」という意見を表した。
- 平成26年(2014年)、典子女王は婚約における記者会見で女性宮家の質問が出た際には「女性宮家の話題について何かを申し上げるという立場にはおりません」と答えている[26]。
- 平成30年(2018年)、絢子女王は婚約における記者会見で皇族の減少に関する質問が出た際には「皇族の減少は、事実として起こっていることではございますが、その先の制度を含め、私がコメントする立場にはありませんので、発言を差し控えたいと存じます」と答えている[27]。
旧皇族の動向 編集
旧皇族の多くは、皇位継承問題が議論されるようになった頃から、メディア等の取材に対しても、ノーコメントを通している。
なお、旧皇族でも一部の者が皇位継承問題について言及した例がある。
- 竹田恒泰は、旧皇族間での相談、許可の下で個人の資格において活動しているが、「一般論として」と前置きした上で「その〔皇統断絶の危機に皇位を継承するという〕お役目の歴史的な重さに比べたら、個人的な欲望や野望など、取るに足らないちっぽけなものにすぎないと思っています」と述べている[28]。
- 伏見博明は、著書『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて』(2022年1月出版)の中で「天皇陛下に(皇族に)復帰しろと言われ、国から復帰してくれと言われれば、これはもう従わなきゃいけない」と述べている[29]。またその出版記念パーティーにおいても「もし(皇室に)何かあればまた行きます」と重ねて皇族復帰の覚悟を語った。(読売テレビ、ウェークアップ 2022年6月11日放送)
- 2023年3月には週刊誌で愛子さまのお婿候補に旧宮家・賀陽宮の御子息が挙がっていることが相次いで報道された。(『週刊女性』(3月7日号)、 『女性セブン』(3月16日号)、 『週刊新潮』(3月16日号)、 『女性自身』(3月28日・4月4日合併号)、 「FRIDAYデジタル」(3月16日公開)、 『週刊新潮』(3月30日号)、「FRIDAYデジタル」(3月28日公開)、 『週刊ポスト』(4月7日・14日合併号))
旧皇族と南北朝正閏問題 編集
旧皇族(旧宮家)の宗家である伏見宮は、1911年(明治44年)に非正統・歴代外とした北朝の天皇に由来している(伏見宮の祖は、北朝3代〈江戸時代までは98代〉崇光天皇の皇子伏見宮栄仁親王。その成立・存続は北朝初代〈江戸時代までは96代〉光厳天皇の配慮によるところが大きい[注釈 3])ため、しばしば問題視される。
この問題に関して日本近世史学者である野村玄は、現実的に北朝の皇統を戴き、旧皇族・女性皇族のいずれにせよ皇室制度維持は北朝の子孫の活用無くしては不可能であり、南朝正統論による皇統理論は論理的に困難であるとした[33]。そして、南朝正統が歴史的事実と大きく乖離していることを挙げた上で[注釈 4]、明治天皇の南朝正統の勅裁が天皇自身によって敢えて曖昧な形でなされていることを指摘し、それであれば歴史的事実に即した系譜の整理は可能であると、皇位継承問題における北朝天皇の歴代天皇復帰の必要性を示唆している[33]。(→南北朝正閏論)
側室制度(一夫多妻制)について 編集
皇室では長らく、日本独自の一夫多妻制であった側室制度(非嫡出男子の皇位継承権)が認められており、旧皇室典範の下でも規定があった。しかし、大正天皇は側室を持たずに皇后との間で男子に恵まれ、昭和天皇も同様であった。そして、戦後制定された皇室典範では庶子については規定を置かないことになり、非嫡出男子の皇位継承権は認められないこととなった(皇室典範第2条)。
そして、このかつての側室制度を復活させることにより、皇位継承問題についての問題が緩和されるのではないか、との議論が一部存在するが、現在の日本では側室制度や一夫多妻制が制度化されておらず、さらに婚外の恋愛(いわゆる不倫)そのものに対する世論の反感が大きいことから、賛同者は少ない。
- 側室制の復活に対する反対論
- 離婚すれば良いだけの問題である。ただし、跡継ぎを産めなければ離婚、さらに跡継ぎのために新しい女性と再婚という制度は側室と同じように現代社会の価値観から逆行するとも言える。
- 現在の日本、及び他の先進国の倫理観から見て、問題がある。
- 国民の間では一夫一婦制が定着しており、天皇・皇族のみが国民から更に乖離することになる。
- 側室制度が復活した場合、現代において側室になろうという女性がいるかどうか、また将来側室をとることになっている男性のもとに正妃として嫁ごうという女性がいるかどうか、という点まで視野を広げれば、側室制度を復活させたがために肝心の正妃をも得ることができなくなる危険性をはらんでいる。
- 全ての先進国で一夫一婦制が採用されている現在の国際社会において、側室を復活させれば、一部の国を除いて日本の近代文明国としての品位が疑われかねない。
- 現在では、医学の進歩によって乳幼児の死亡率は下がっており、側室制を復活させずとも、一夫一婦制でも男系による皇位継承は十分に可能である[注釈 5]。
- 男性皇族本人が不妊症を患っていたり、性的指向が女性を対象としていないなどの要因で、たとえ側室を娶っても子に恵まれない場合もある。
ただし、側室復活の論議に関わらず、今日に至るまで日本の皇室において「非嫡出子の相続」そのものが認められていない。この制度は明治以降に導入されたものではなく、戦後に初めて導入されたものである。そもそも側室制度は明治以降の皇室典範に明記されたものではなく、非嫡出の男子においても皇位継承権を認めることにより間接的に許容されたものであった。
一方で民間においては、2013年12月の民法一部改正(平成25年12月11日法律第94号)までは非嫡出子の法定相続分を嫡出子の2分の1とする規定(旧・900条4号)が設けられていた。しかし、この規定については2013年9月4日に最高裁大法廷によって違憲判断が下された[36][37] ことにより、相続差別は違憲として法改正が成されている。
しかしながら、皇室においては側室制度と切り離せない非嫡出子の相続規定においては議論が進んですらいないのが現状である。また、日本では父子関係は認知による関係構築がDNA鑑定などの科学的な親子関係証明に優先されるため[38]、「父親」にあたる皇族の認知如何では、血縁上皇統でない人間が皇位継承者となる恐れが存在する。
本問題についての主な論者 編集
- 男系派
- 青山繁晴(ジャーナリスト、参議院議員)[39]
- 麻生太郎(衆議院議員、元首相、前財務相・副総理、自由民主党副総裁)[40]
- 有村治子(参議院議員、元内閣府特命担当相、自由民主党中央政治大学院長)
- 有本香 (ジャーナリスト)
- 稲田朋美(衆議院議員、元防衛相)
- 岩井克己(元朝日新聞皇室担当記者)
- 宇山卓栄(代々木ゼミナール世界史科講師、著作家)
- 大高未貴(ジャーナリスト)
- 大塚耕平(参議院議員、国民民主党代表代行兼政務調査会長)
- 大原康男(宗教学者、國學院大學名誉教授)
- 小名木善行(作家、国史啓蒙家)
- 加瀬英明(外交評論家)
- KAZUYA(YouTuber、作家)
- 葛城奈海(ジャーナリスト、女優、環境運動家、陸上予備自衛官)
- 門田隆将(作家、ジャーナリスト)
- 椛島有三(右派社会運動家、日本会議事務総長)
- 上島嘉郎(ジャーナリスト、産経新聞社月刊「正論」第2代編集長)
- 倉山満 (憲政史家、皇室史学者)
- ケント・ギルバート(アメリカ人のカリフォルニア州出身弁護士、タレント)
- 小林節(憲法学者)
- 小堀桂一郎(文学者、東京大学名誉教授)
- 桜井誠(在日特権を許さない市民の会元会長、政治団体日本第一党代表)
- 櫻井よしこ(ジャーナリスト)
- 佐藤幸治(法学者)
- 佐波優子(戦後問題ジャーナリスト、予備陸上自衛官)
- 下村博文(衆議院議員、元文部科学相)
- 上念司(経済評論家)
- 菅義偉(衆議院議員、元内閣官房長官、元首相)
- 水島総(経営者、映画監督、脚本家、プロデューサー)
- 水間政憲(近現代史研究家・ジャーナリスト)
- 三橋貴明(中小企業診断士、評論家)
- 村田春樹(政治活動家)
- 高市早苗(衆議院議員、自由民主党前政務調査会長、経済安全保障担当相)
- 高清水有子(皇室評論家)
- 武田邦彦(環境学者)
- 竹田恒泰(作家、旧竹田宮家の子孫、明治天皇の玄孫)
- 玉木雄一郎(衆議院議員、国民民主党代表)
- 半井小絵(気象予報士、タレント)
- 西尾幹二(評論家)
- 新田均(歴史学者)
- 馬場伸幸(衆議院議員、日本維新の会代表)
- 百地章(憲法学者)
- 百田尚樹 (構成作家、小説家)
- 平沼赳夫(元衆議院議員、元経済産業相)
- 藤田文武(衆議院議員、日本維新の会幹事長)
- 八木秀次(憲法学者)
- 山谷えり子(参議院議員、元国家公安委員長)
- 山田宏(元東京都杉並区長、参議院議員)[39]
- 吉木誉絵(作家)
- 八幡和郎(評論家・歴史作家)
- 和田政宗(参議院議員、元NHKアナウンサー)
- 所功(歴史学者)元々は、女系派だが、近年は、旧宮家皇籍復帰に賛同
- 女系派
- 2010年10月から2011年9月まで菅直人内閣の内閣官房参与を務めた松本健一は、有識者会議などのあり方に疑問を投げかけた上で、現代的男女平等の考えとは違った立場の上で女系天皇を容認すべきと説いた。松本によれば古来より日本の天皇は「女性格」で人間の生物学的な性、男女が対になるという概念を超越した存在であるとし、男系男子重視は儒教、仏教、西洋近代の皇帝制度を模倣した男性重視主義にすぎず日本の伝統的な天皇概念とは全く別の思考の上にあるとした。よって生物学的概念で男性によるY染色体の継承を重視する男系男子派の主張は意味をなさず、生物学的根拠によって正当化をなそうとすれば、唯物史観派から天皇御陵を開いてDNA鑑定をするよう逆手を取られるだけであるとしている。そして日本民族が皇室を必要とし守りたいと考える限り、男系女性天皇であろうが女系天皇であろうが存続は図られるとしている[41][42]。
世論調査 編集
この数年間、皇位継承問題についての世論調査は全国紙や通信社、テレビ局等のマスメディアによるものに限定しても計10回以上実施されている。
1月 | 2月 | ||
---|---|---|---|
天皇制は、伝統として父方の天皇の血筋を継ぐ「男系」が維持されてきました。政府の有識者会議では、女性が天皇になるのみでなく、女性天皇の子どもが天皇になる「女系天皇」を認めています。あなたは、「女性天皇」と「女系天皇」の違いについてご存知ですか、ご存知ではありませんか?(1、2月に共通) | |||
知っている | 36.7% | 41.7% | |
知らない | 53.2% | 52.1% | |
わからない、答えない | 10.2% | 6.2% |
有識者会議の報告書提出を受けて、『毎日新聞』が2005年(平成17年)12月10日、11日の両日に行なった全国世論調査(電話)でも、皇位継承原理について「女系も認めるべきだ」が「男系を維持すべきだ」を大きく上回っている。
しかし「女性皇族は結婚後も皇族にとどまるべきだと思いますか、自分の意思で皇族から離れられるようにすべきだと思いますか」との質問については「自分の意思で離れられるようにすべきだ」が、「皇族にとどまるべきだ」を大きく上回り、賛否の割合がほぼ逆転している。
全体 | 男性 | 女性 | |
---|---|---|---|
これまで天皇は、父方が天皇の血筋を継ぐ「男系」で維持されてきました。皇室典範に関する有識者会議の報告書は、母方天皇の血筋を継ぐ「女系天皇」も認めており、歴史的な転換となります。「男系を維持すべきだ」と思いますか、「女系を認めるべきだ」と思いますか。 | |||
男系を維持すべきだ | 22% | 26% | 19% |
女系も認めるべきだ | 71% | 68% | 74% |
「女性皇族は結婚後も皇族にとどまるべきだ」と思いますか、「自分の意思で皇族から離れられるようにすべきだ」と思いますか。 | |||
皇族にとどまるべきだ | 15% | 16% | 14% |
自分の意思で離れられるようにすべきだ | 80% | 78% | 81% |
天皇や皇族は一般的に政治的発言をしませんが、女性天皇を認めるには、皇室典範の改正が必要です。「改正にあたって、天皇や皇族の意見を聞くべきだ」と思いますか? | |
聞くべきだと思う | 76% |
聞くべきだとは思わない | 19% |
答えない・わからない | 5% |
天皇や皇族は一般的に政治的発言をしませんが、この問題について皇族が、意見を表明することにあなたは賛成ですか、反対ですか? | |
賛成 | 48% |
反対 | 45% |
答えない・わからない | 7% |
2010年、第125代天皇明仁の即位20年に当たってNHKが実施した皇室に関する意識調査(2009年10月30日 - 11月1日電話調査)では、2043人の回答者のうち、女性天皇に賛成77%、反対14%で、2006年2月の調査に比べて賛成がやや増加した[43]。
年齢別では若年層ほど賛成の比率が多かった。また「女系天皇の意味を知っているか」という質問に対しては「よく知っている」8%、「ある程度知っている」43%、「あまり知らない」33%、「全く知らない」12%で、このうち「よく/ある程度知っている」人を対象に女系天皇を認めることの賛否を質問したところ賛成81%、反対14%であった。
2019年4月の時事通信の世論調査では、「男系男子に限られている現在の皇位継承資格を、女系・女性皇族にも広げるべきか」を尋ねたところ、「広げるべきだ」が69.8%だった。「広げるべきではない」は11.2%、「どちらとも言えない・分からない」は19.0%だった。また、同年5月1,2日に共同通信社が実施した全国緊急電話世論調査によると、女性天皇を認めることに賛成は79.6%で、反対の13.3%を上回った。
令和4年(2022年)における最新のNHKの世論調査では「旧皇族の男系男子を養子に迎える」という案について、賛成が41%、反対が37%と、男系による皇位継承の案が女系容認を上回った[44]。また、年代別で見ると18〜39歳までの若い世代の賛成が57%で一番多かった[45]。
資料 編集
- 令和3年現在の皇位継承権者および継承順位
順位 | 皇位継承資格者 | 読み | 性別 | 生年月日 | 現年齢 | 今の天皇から見た続柄 | 摂政就任順位 | ||
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第1位 | 秋篠宮文仁親王 | あきしののみや | ふみひと | 男性 | 1965年11月30日 (昭和40年) |
57歳 | 上皇明仁第2皇男子 | 弟 /第1位 | |
第2位 | 悠仁親王 | ひさひと | 男性 | 2006年 9月 6日 (平成18年) |
17歳 | 秋篠宮文仁親王第1男子 | 甥 /|||
第3位 | 常陸宮正仁親王 | ひたちのみや | まさひと | 男性 | 1935年11月28日 (昭和10年) |
88歳 | 昭和天皇第2皇男子 | 叔父 /第2位 |
- 旧宮家一覧
昭和22年(1947年)に皇籍離脱した11宮家。この家、令和3年現在では6宮家で男系子孫が存在している。
宮家 | 読み | 創始年 | 初代当主 | 初代の続柄 | 初代の 世数[注釈 6] |
離脱時 の当主 |
備考 |
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(伏見宮) | ふしみ | 1456年[注釈 7] | 栄仁親王 | 崇光天皇第1皇子 | 1世 | 博明王 | 世襲親王家 男系断絶見込 |
(閑院宮) | かんいん | 1718年 | 直仁親王 | 東山天皇第6皇子 | 1世 | 春仁王 | 世襲親王家 男系断絶 |
(山階宮) | やましな | 1864年 | 晃親王 | 伏見宮邦家親王第1王子 | 15世 | 武彦王 | 男系断絶 |
(北白川宮) | きたしらかわ | 1870年[注釈 8] | 智成親王 | 伏見宮邦家親王第13王子 | 15世 | 道久王 | 男系断絶 |
(梨本宮) | なしもと | 1871年[注釈 9] | 守脩親王 | 伏見宮貞敬親王第9王子 | 14世 | 守正王 | 男系断絶 |
久邇宮 | くに | 1875年 | 朝彦親王 | 伏見宮邦家親王第4王子 | 15世 | 朝融王 | |
賀陽宮 | かや | 1892年 | 邦憲王 | 久邇宮朝彦親王第2王子 | 16世 | 恒憲王 | |
(東伏見宮) | ひがしふしみ | 1903年 | 依仁親王 | 伏見宮邦家親王第17王子 | 15世 | [注釈 10] | 男系断絶 |
竹田宮 | たけだ | 1906年 | 恒久王 | 北白川宮能久親王第1王子[注釈 11] | 16世 | 恒徳王 | |
朝香宮 | あさか | 1906年 | 鳩彦王 | 久邇宮朝彦親王第8王子 | 16世 | 鳩彦王 | |
東久邇宮 | ひがしくに | 1906年 | 稔彦王 | 久邇宮朝彦親王第9王子 | 16世 | 稔彦王 |
- 旧皇族の系譜(男系/父系)
93代天皇 後伏見天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北朝初代天皇 光厳天皇 | 北朝2代天皇 光明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北朝3代天皇 崇光天皇 | 北朝4代天皇 後光厳天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伏見宮 栄仁親王 | 北朝5代天皇 後円融天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伏見宮 治仁王 | 伏見宮 貞成親王 | 100代天皇 後小松天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
101代天皇 称光天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
102代天皇 後花園天皇 | 伏見宮 貞常親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔現皇室〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伏見宮 邦家親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山階宮 晃親王 | 久邇宮 朝彦親王 | 北白川宮 能久親王 | 伏見宮 貞愛親王 | 閑院宮 載仁親王 | 東伏見宮 依仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山階宮 菊麿王 | 賀陽宮 邦憲王 | 久邇宮 邦彦王 | 梨本宮 守正王 (73) (第20位) | 朝香宮 鳩彦王 (59) (第21位) | 東久邇宮 稔彦王 (59) (第24位) | 竹田宮 恒久王 | 北白川宮 成久王 | 伏見宮 博恭王 | 閑院宮 春仁王 (45) (第32位) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山階宮 武彦王 (49) (第8位) | 賀陽宮 恒憲王 (47) (第9位) | 久邇宮 朝融王 (46) (第16位) | 竹田宮 恒徳王 (38) (第29位) | 北白川宮 永久王 | (伏見宮) 博義王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北白川宮 道久王 (10) (第28位) | 伏見宮 博明王 (15) (第7位) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 青色背景は、皇籍離脱時の当主。名前下の()内に、年齢および皇籍離脱前の皇位継承順位併記。
- ※東伏見宮家は依仁親王がすでに薨去しており、継嗣となる男児はおらず未亡人の同妃周子が当主となり、その死没により(男系としては)断絶・廃家。
- 以下、太字の( )内の数字は、昭和22年(1947)10月14日の旧皇族11宮家51名の皇籍離脱前の皇位継承順位。
- 11宮家の26名(第7位から第32位まで)
- 伏見宮邦家親王 (1802–1872) (伏見宮)
- 昭和22年(1947)10月14日の旧皇族11宮家51名の皇籍離脱前の皇位継承順位
順位 | 皇位継承資格者 | 読み | 性別 | 生年月日/当時の年齢 | 続柄 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
第1位 | 継宮明仁親王 (皇太子明仁親王) |
つぐのみや | あきひと | 男性 | 1933年12月23日 (昭和 8年) |
13歳 | 昭和天皇第1皇男子 | |
第2位 | 義宮正仁親王 | よしのみや | まさひと | 男性 | 1935年11月28日 (昭和10年) |
11歳 | 昭和天皇第2皇男子 | |
第3位 | 秩父宮雍仁親王 | ちちぶのみや | やすひと | 男性 | 1902年 (明治35年) |
6月25日45歳 | 大正天皇第2皇男子 | 皇弟 /|
第4位 | 高松宮宣仁親王 | たかまつのみや | のぶひと | 男性 | 1905年 (明治38年) |
1月 3日42歳 | 皇弟 / 大正天皇第3皇男子 | |
第5位 | 三笠宮崇仁親王 | みかさのみや | たかひと | 男性 | 1915年12月 (大正 4年) |
2日31歳 | 皇弟 / 大正天皇第4皇男子 | |
第6位 | 寬仁親王 | ともひと | 男性 | 1946年 (昭和21年) |
1月 5日1歳 | 甥 / 三笠宮崇仁親王第1男子 | 皇||
第7位 | 伏見宮博明王 | ふしみのみや | ひろあき | 男性 | 1932年 (昭和 7年) |
1月26日15歳 | 伏見宮博義王第1男子 | |
第8位 | 山階宮武彦王 | やましなのみや | たけひこ | 男性 | 1898年 (明治31年) |
2月13日49歳 | 山階宮菊麿王第1男子 | |
第9位 | 賀陽宮恒憲王 | かやのみや | つねのり | 男性 | 1900年 (明治33年) |
1月27日47歳 | 賀陽宮邦憲王第1男子 | |
第10位 | 邦寿王 | くになが | 男性 | 1922年 (大正11年) |
4月21日25歳 | 賀陽宮恒憲王第1男子 | ||
第11位 | 治憲王 | はるのり | 男性 | 1926年 (大正15年) |
7月 3日21歳 | 賀陽宮恒憲王第2男子 | ||
第12位 | 章憲王 | あきのり | 男性 | 1929年 (昭和 4年) |
8月17日18歳 | 賀陽宮恒憲王第3男子 | ||
第13位 | 文憲王 | ふみのり | 男性 | 1931年 (昭和 6年) |
7月12日16歳 | 賀陽宮恒憲王第4男子 | ||
第14位 | 宗憲王 | むねのり | 男性 | 1935年11月24日 (昭和10年) |
11歳 | 賀陽宮恒憲王第5男子 | ||
第15位 | 健憲王 | たけのり | 男性 | 1942年 (昭和17年) |
8月 5日5歳 | 賀陽宮恒憲王第6男子 | ||
第16位 | 久邇宮朝融王 | くにのみや | あさあきら | 男性 | 1901年 (明治34年) |
2月 2日46歳 | 久邇宮邦彦王第1男子 | |
第17位 | 邦昭王 | くにあき | 男性 | 1929年 (昭和 4年) |
3月25日18歳 | 久邇宮朝融王第1男子 | ||
第18位 | 朝建王 | あさたけ | 男性 | 1940年 (昭和15年) |
5月11日7歳 | 久邇宮朝融王第2男子 | ||
第19位 | 朝宏王 | あさひろ | 男性 | 1944年10月 (昭和19年) |
7日3歳 | 久邇宮朝融王第3男子 | ||
第20位 | 梨本宮守正王 | なしもとのみや | もりまさ | 男性 | 1874年 (明治 7年) |
3月 9日73歳 | 久邇宮朝彦親王第4男子 | |
第21位 | 朝香宮鳩彦王 | あさかのみや | やすひこ | 男性 | 1887年10月20日 (明治20年) |
59歳 | 久邇宮朝彦親王第8男子 | |
第22位 | 孚彦王 | たかひこ | 男性 | 1912年10月 (大正元年) |
8日35歳 | 朝香宮鳩彦王第1男子 母:鳩彦王妃允子内親王(明治天皇第8皇女) | ||
第23位 | 誠彦王 | ともひこ | 男性 | 1943年 (昭和18年) |
8月18日4歳 | 孚彦王第1男子 | ||
第24位 | 東久邇宮稔彦王 | ひがしくにのみや | なるひこ | 男性 | 1887年12月 (明治20年) |
3日59歳 | 久邇宮朝彦親王第9男子 | |
第25位 | 盛厚王 | もりひろ | 男性 | 1916年 (大正 5年) |
5月 6日31歳 | 東久邇宮稔彦王第1男子 母:稔彦王妃聡子内親王(明治天皇第9皇女) | ||
第26位 | 信彦王 | のぶひこ | 男性 | 1945年 (昭和20年) |
3月10日2歳 | 盛厚王第1男子 母:盛厚王妃成子内親王(昭和天皇第1皇女) | ||
第27位 | 俊彦王 | としひこ | 男性 | 1929年 (昭和 4年) |
3月24日18歳 | 東久邇宮稔彦王第4男子 母:稔彦王妃聡子内親王(明治天皇第9皇女) | ||
第28位 | 北白川宮道久王 | きたしらかわのみや | みちひさ | 男性 | 1937年 (昭和12年) |
5月 2日10歳 | 北白川宮永久王第1男子 | |
第29位 | 竹田宮恒徳王 | たけだのみや | つねよし | 男性 | 1909年 (明治42年) |
3月 4日38歳 | 竹田宮恒久王第1男子 母:恒久王妃昌子内親王(明治天皇第6皇女) | |
第30位 | 恒正王 | つねただ | 男性 | 1940年10月11日 (昭和15年) |
7歳 | 竹田宮恒徳王第1男子 | ||
第31位 | 恒治王 | つねはる | 男性 | 1944年 (昭和19年) |
8月 3日3歳 | 竹田宮恒徳王第2男子 | ||
第32位 | 閑院宮春仁王 | かんいんのみや | はるひと | 男性 | 1902年 (明治35年) |
8月 3日45歳 | 閑院宮載仁親王第2男子 |
脚注 編集
注釈 編集
- ^ この間に誕生した皇族は、昭和44年(1969年)生の紀宮清子内親王から平成13年(2001年)生の敬宮愛子内親王まで、9人連続で女性であった。
- ^ ただし、この時点では、皇位継承順位は男子優先か長子優先かについて意見がまとまっていなかった。
- ^ 具体的には、伏見宮は持明院統の正嫡として成立したが、崇光天皇の子孫にこの道を開いたのが光厳天皇(法皇)であり[30]、また、後小松天皇や足利義満から所領が没取された後に返却された「伏見御領」も、亡き光厳の命令に基づいて返却された[31]。この所領は伏見宮の断絶の危機を救い[32]、また「伏見宮」の名前の由来となったものである。委細は、『光厳天皇#伏見宮との関係』および『伏見宮』を参照。
- ^ 具体的には、三種の神器に基づく南朝正統論など。歴史的事実との誤謬や、論理的問題、制度的問題が指摘されている。委細は「北朝 (日本)#北朝の三種の神器」を参照。
- ^ 例として、旧オーストリア帝室・旧ハンガリー王室であるハプスブルク=ロートリンゲン家は、一夫一婦制のもとで男系継承を問題なく維持できており、約300年間で一門は500人を超えるほどに膨れ上がっている[34][35]。
- ^ 直系尊属の天皇から数えた数。
- ^ 貞常親王が後花園から後崇光の紋所を代々使用することと永世「伏見殿御所(伏見殿)」と称することを勅許された年。
- ^ 照高院宮と称したのは1868年。
- ^ 梶井宮と称したのは梶井宮。
- ^ 当主東伏見宮依仁親王は離脱前の1922年に薨去。
- ^ 庶長子。
出典 編集
- ^ 皇統譜によれば神武天皇とされている
- ^ 水間 2019, pp. 99–115
- ^ 東京新聞 <代替わり考 皇位の安定継承>(2)旧宮家男子の皇籍取得を 日大名誉教授(憲法)・百地章氏 2020年5月18日 02時00分https://www.tokyo-np.co.jp/article/16775
- ^ 皇別摂家 (衆議院議員 河野太郎公式サイト 2016.10.22)
- ^ a b c d 八幡和郎「今上天皇に血統の近い知られざる『男系男子』たち」『新潮45』36巻1号、新潮社、2017年1月18日、42頁。
- ^ 一条兼香の庶子。まだ子のなかった兼潔(のち経胤)の養子となった。この後に実子の冬香が生誕。兼純自身は結局早世してしまい、冬香がその跡を継いだ。
- ^ a b 一時、本家・一条実良の婿養子となるが、離縁されて醍醐家に戻る。代わりに四条隆謌の子・実輝が養子となった。
- ^ 兄・隆謌の養子となるが、離縁され分家した。
- ^ “皇位継承、有識者会議が検討へ 政府、専門家に意見聴取”. 2020年12月13日閲覧。
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関連文献 編集
- 荊木美行「戦後の記紀批判をめぐる覚書――最近の皇室典範改正問題に関聯して」『皇学館論叢』第39巻第4号、皇学館大学人文学会、2006年(平成18年)8月、18-31頁、ISSN 0287-0347。
- 笠原英彦『象徴天皇制と皇位継承』筑摩書房〈ちくま新書〉、2008年(平成20年)5月。ISBN 978-4-480-06417-2。
- 所功『皇位継承のあり方 "女性・母系天皇"は可能か』PHP研究所〈PHP新書〉、2006年(平成18年)1月。ISBN 4-569-64805-3。
- 松本健一『昭和天皇 畏るべき「無私」』(第1刷)ビジネス社、2007年2月5日。ISBN 978-4-8284-1331-0。
- 寬仁親王『皇室と日本人 寛仁親王殿下お伺い申し上げます』加瀬英明・櫻井よしこ・小堀桂一郎ほか聞き手、明成社、2006年(平成18年)3月。ISBN 4-944219-41-5。
- 百地章ほか 著、日本会議 編『皇位継承の伝統を守ろう! 皇室典範に関する有識者会議の問題点』明成社、2006年(平成18年)2月。ISBN 4-944219-40-7。
- 深瀬泰旦「明治16年と同21年の上申書からみた明治天皇皇子女夭折問題」(PDF)『日本医史学雑誌』第61巻第2号、日本医史学会、2015年、163-178頁。
- 深瀬泰旦「明治天皇皇子女夭折の死因について」(PDF)『日本医史学雑誌』第61巻第3号、日本医史学会、2015年、255-266頁。
- 所功「皇位世襲の持続方法を考え直す」https://ironna.jp/article/12739
- 水間政憲『ひと目でわかる皇室の危機 ~天皇家を救う秘中の秘』ビジネス社、2019年9月。ISBN 978-4828421285。
関連項目 編集
外部リンク 編集
- 宮内庁
- 皇室典範に関する有識者会議(首相官邸) - ウェイバックマシン(2005年2月6日アーカイブ分)
- 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議(内閣官房)