盛誉(せいよ、生年不詳 - 天正10年3月16日1582年4月18日))は、戦国時代から安土桃山時代肥後国球磨僧侶。普門寺[1]5代院主で、号は奝然坊(ちょうねんぼう)。父は湯山宗豊、母は玖月善女、兄は湯山宗昌

生涯 編集

湯山地頭の湯山宗豊の次男に生まれるも、11歳で出家し普門寺3代阿闍梨真盛に随い、奝然坊盛誉と号した。その後、願成寺11世法院真誉に密灌を受け、日向国佐土原の黒貫寺にて数年間修学した後、元亀年間に普門寺4代朝弁に密伝を受けると普門寺5代院主に任じられた。

しかし、天正9年(1581年)12月、相良義陽の実弟相良頼貞が、兄の死後に相良家を継がんと挙兵する。頼貞は深水長智らに説得され後継を諦め日向国に逃れたが、翌天正10年(1582年)この頼貞の乱に盛誉と実兄の宗昌が与したと讒言される。義陽の跡を継いだ相良忠房は二人を成敗するよう、須木米良の黒木千右衛門に命じたが、身に覚えのない二人は普門寺にて謹慎する[2]。やがて、讒言は虚実と判り、成敗は中止と決まった。忠房は打ち手にそれを伝えるべく犬童九助という者を遣わしたが、九助は途中の築地村に立ち寄った上に、馬療治の家で酒を飲んだ挙句に途中で寝入ってしまう。黒木らは命令撤回を知らず普門寺を夜襲、兄の宗昌は日向国に逃亡したものの、盛誉は道場にて観音経を読経しているところを刺殺された。盛誉の弟子は抵抗するも多勢に無勢、一人残らず討ち取られ普門寺も焼亡した。

その後、盛誉の実母である玖月善女は相良家を深く恨み、市房山呪詛をして、最期は飼い猫に自分の血を舐めさせ、自殺した。それから不吉な出来事が続き、呪いは幾ら祈祷しても祓われずに、とうとう忠房も疱瘡を患って没した。跡を継いだ相良頼房は、慶長2年(1597年青井阿蘇神社に祠を立てるが、それでも鎮まりきれず、寛永2年(1625年)、普門寺の跡地に千光山生善院を建立、盛誉に「権大僧都法院」を贈号し、盛誉の命日である3月16日に当主と領民が参詣するようになったことでようやく治まった。

脚注 編集

  1. ^ 現在の普門寺観音(相良三十三観音25番札所)。普門寺はもともと湯山の修験場であり、修験道の寺だった。
  2. ^ 女人と通じた為に成敗を命じられたとの説もある。しかし、普門寺3代の真盛が弘治年間に女人と通じたとの虚実により成敗されており、これと混同されている可能性もある

参考文献 編集