盧 叔虎[1](ろ しゅくこ、生年不詳 - 577年)は、中国北魏末から北斉にかけての官僚隠者本貫范陽郡涿県盧文偉の甥にあたる。

経歴編集

盧光宗の子として生まれた。洛陽にあってふたりの兄の盧観・盧仲宣とともに文章の才能で知られた。若いころから機転が利き、やくざ者を率い、奇策を好み、諸葛亮の事跡を慕っていた。賀抜勝の下で荊州開府長史となった。賀抜勝は叔虎の進言を用いず、城を棄てて南朝梁に亡命した。叔虎は涿県に帰り、堤のそばに住居を築いて、悠々自適の生活を送った。高澄が叔虎を召しだそうとしたが、叔虎は病と称して応じなかった。550年、北斉が建国されると、再び召集されたので、やむをえず露車に乗って鄴都に入った。楊愔と面会して、司徒諮議に任じられたが、病と称して受けなかった。

560年皇建元年)、孝昭帝が即位すると、召されて太子中庶子となり、銀青光禄大夫の位を加えられた。孝昭帝に世情について諮問されると、叔虎は北周を討つよう勧めた。また北周平定の策を練るため、西の国境に近い平陽に移り住み、元文遙とともに『平西策』1巻を編纂した。しばらくして孝昭帝が死去すると、西征の計画は中止された。

561年大寧元年)、武成帝が即位すると、儀同三司・都官尚書に任じられ、合州刺史として出向した。武平年間、太子詹事・右光禄大夫に転じた。577年承光元年)、北斉が滅ぶと、故郷の范陽に帰ったが、兵乱のために城は陥落し、叔虎と族弟の盧士遂は寒さと飢えのために死去した。北周の将軍の宇文神挙が叔虎の徳を慕って、遺体を収容して葬った。

脚注編集

  1. ^ 唐諱を避けるため、『北斉書』では名を「叔武」、『北史』では名を「叔彪」と書かれる。叔虎の名は、唐の高祖李淵の祖父李虎の諱に触れていた。

伝記資料編集