盧 文偉(ろ ぶんい、482年 - 541年)は、中国北魏末から東魏にかけての政治家は休族。本貫范陽郡涿県[1][2][3]

経歴 編集

盧敞の子として生まれた。幼くして父を失ったが、経書史書を渉猟し、交際を広め、若くして郷里の尊敬を受けた。州に主簿として召された。38歳のとき、初めて秀才に挙げられた。平北府長流参軍に任ぜられ、刺史裴延儁を説得して督亢陂を修復させ、1万頃あまりにわたる畑を灌漑させて、民生を図った[1][2][3]

北魏の孝昌年間、尚書郎中を兼ねたが、行台の常景に引き止められて行台郎中となった。六鎮の乱が起こることを事前に察知して、穀物を范陽城に備蓄させ、戦乱に備えさせた。郷里に帰り、まもなく杜洛周に捕らえられた。杜洛周が敗れると、葛栄に属し、葛栄が敗れると、また家に帰った。永安元年(528年)、韓楼が薊城に拠ると、文偉は郷里の人々を率いて范陽を守り、対抗した。文偉は行范陽郡事となった。范陽を守ること2年、士卒と労苦を同じくし、家財を分かって貧窮した人々を救い、民衆に慕われた。永安2年(529年)、爾朱栄が部将の侯淵に韓楼を討たせ、これを平定すると、文偉は功績により大夏県男に封ぜられ、范陽郡太守に任ぜられた。侯淵は范陽に駐屯した。永安3年(530年)、爾朱栄が殺害されると、文偉は侯淵が信用できなかったため、狩猟に誘って外に出し、門を閉じて閉め出した。侯淵は拠点を失って、中山へと向かった[4][2][3]

孝荘帝が死去すると、文偉は幽州刺史の劉霊助とともに起兵を謀った。劉霊助は瀛州を落とし、文偉を行瀛州事としてとどめて、自らは兵を率いて定州に赴いて、侯淵に敗れた。文偉は瀛州を放棄して、范陽郡に逃げ帰り、高乾兄弟らと結んだ。普泰元年(531年)、高歓が信都で起兵すると、文偉は子の盧懐道を派遣して協力を約束した。安東将軍・安州刺史に任ぜられた。ときに安州はまだ高歓の勢力圏ではなかったので、文偉は行幽州事となり、鎮軍の位を加えられた。劉霊助が敗れた後、盧曹が幽州に拠って爾朱兆に降ったため、文偉は幽州に入ることができず、范陽郡を州治に代えた。太昌元年(532年)、また安州刺史に転じ、散騎常侍を加えられた。東魏の天平末年、行東雍州事となり、行青州事に転じた。興和3年(541年)、60歳で青州に死去した。使持節・侍中・都督定瀛殷三州諸軍事・司徒・尚書左僕射・定州刺史の位を追贈され、を孝威といった[5][6][7]

子に盧恭道・盧懐道・盧宗道がいた。盧恭道は、龍驤将軍・范陽郡太守となり、文偉に先だって死去した。盧懐道は、平西将軍・光禄大夫をつとめた。盧宗道は、尚書郎・通直散騎常侍を経て、南営州刺史を代行したが、失言のために殺害された[8][9][10]

脚注 編集

  1. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 320.
  2. ^ a b c 北斉書 1972, p. 319.
  3. ^ a b c 北史 1974, p. 1092.
  4. ^ 氣賀澤 2021, pp. 320–321.
  5. ^ 氣賀澤 2021, p. 321.
  6. ^ 北斉書 1972, p. 320.
  7. ^ 北史 1974, pp. 1092–1093.
  8. ^ 氣賀澤 2021, pp. 322–324.
  9. ^ 北斉書 1972, pp. 320–322.
  10. ^ 北史 1974, pp. 1093–1094.

伝記資料 編集

参考文献 編集

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4