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直江氏(なおえし)は、日本国氏姓。ここでは藤原姓直江氏について記述する。

直江氏
家紋
三盛亀甲に三葉
本姓 藤原京家
神氏
種別 武家
出身地 越後国頸城郡直江庄
著名な人物 直江景綱
直江兼続
凡例 / Category:日本の氏族
直江氏関連系図

目次

概要編集

直江氏は藤原京家藤原麻呂を遠祖と仰ぎ、越後国頸城郡直江庄を領して直江氏を名乗ったという。あるいは神氏の一族(神皇産霊尊を祖と仰ぐ)であるともいう。しかしながら、系譜に関しては不明瞭な部分が極めて多い。

直江宗家編集

直江氏の動向は直江親綱の代までは明確でなく、表舞台に現れるのは戦国時代に入ってからである。

元は本与板城主・飯沼氏旗本であったが、永正11年(1514年)に飯沼頼清長尾為景によって滅ぼされると、長尾氏に臣従し本与板城主(後に与板城主)となる。親綱の子・景綱は長尾景虎(後に上杉謙信)の旗本として政治・軍事両面において活躍し重用された。景綱には男子が無く、総社長尾氏から長尾藤九郎を娘・お船の婿に迎えた(直江信綱)。景綱の後を継いだ信綱は、御館の乱上杉景勝方に付いて勝利に貢献し、景勝の下でも直江氏は重用された。1581年に信綱が暗殺されると、景勝側近の樋口兼続[1]が未亡人となったお船の婿となって直江氏当主となる(この頃、お船が養母される子は出家して高野山に入ったという。名を清融と言う。)。

兼続は豊臣秀吉に接近して家中での地位を高め、要職をことごとく自らの与党で押さえて絶大な権勢を誇り、会津転封後は陪臣の身ながら米沢30万石(与力含む。私領は6万石)を領した。秀吉没後、景勝が徳川家康と対立すると徹底抗戦を唱え、自らも2万余の兵を率いて徳川方の最上義光と戦ったが敗北を喫した。

関ヶ原の戦いで東軍が勝利し、上杉氏が米沢へと減移封されて以後、兼続は徳川家重臣・本多正信に接近し、その子政重に娘・於松を嫁がせて婿養子に迎えた(直江勝吉)。さらに翌年に於松が亡くなると、の阿虎を養女として政重に嫁がせた。その結果、正信の仲介で嫡男・景明の嫁に膳所藩戸田氏鉄の娘を迎えることに成功した兼続は、江戸時代に入っても権勢を保持し続けた。政重が金沢藩に帰参すると、景明誕生前の養子であった本庄長房をはじめとする多くの家臣が政重を追って阿虎と共に加賀へ赴き、政重に仕えた。加えて景明が父に先立って急逝したため、兼続は後継者を欠いたまま死亡した。再び未亡人となったお船は養子を迎えなかったため、直江宗家は断絶した。

米沢藩では、一門高家畠山氏畠山義春の末裔)らを中心に、兼続は上杉家の減封をもたらした奸臣と評され[要出典]、米沢に移した直江氏の菩提寺徳昌寺も破却されて与板に追放されるなどした。しかし20世紀に入ると一転して兼続が称讃されるようになり、従来の評価が一変して今日に至っている。

系図編集

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
親綱
 
 
 
 
 
 
 
長尾顕方
長尾景秀とも)
 
景綱
 
 
 
 
 
 
 
 
 
樋口兼豊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信綱
 
お船
 
兼続
 
本多正信
 
大国実頼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清融阿闍梨
高野山
 
景明
 
於松
 
勝吉
(本多政重)
 
阿虎
(兼続養女)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本多政次
(子孫は加賀藩士青地家)

篠井・松本家編集

直江景綱の弟篠井正信を初代とする直江家臣であった。正信の孫篠井泰信は兼続の妹を娶っている。その子、篠井重則は本多政重に仕え、加賀本多家の重臣として1,000石を領し(のち分家により500石)幕末まで続いた。また重則の叔父で、松本助義の名跡を継いだ松本高次は上杉家に残り、以後も上杉家臣として続いた。

脚注編集

  1. ^ 一説には兼続は景綱の妹が母と言われるが、実母である可能性は低いと言われている。

関連項目編集