真如 (東本願寺)

日本の江戸時代の僧

真如(しんにょ、眞如[1])は、江戸時代中期の浄土真宗東本願寺第十七代法主[2]東本願寺第十六代 一如

真如(眞如[1]

天和2年2月10日 - 延享元年10月2日
1682年3月18日 - 1744年11月5日
上段・旧暦(生年宣明暦・没年貞享暦

下段・グレゴリオ暦
幼名 光養麿
法名 眞如
愚海
院号 功德聚院
光性
尊称 真如上人
宗旨 浄土真宗
宗派 (後の真宗大谷派)
大谷祖廟
テンプレートを表示

生涯 編集

本ページでは、年齢は、数え年。日付は、の正確性、著作との整合を保つため、貞享元年12月30日1685年2月3日[3] )までは、宣明暦表示。 貞享2年1月1日(1685年2月4日)からは、貞享暦表示とする(生歿年月日を除く)。また本山は、「本願寺」が正式名称だが、「西本願寺」との区別の便宜上、「東本願寺」と表記。

天和2年2月10日[4](1682年3月18日)、東本願寺第十五代 常如の長男として誕生。近衛家熙の猶子となる[4]

元禄6年(1693年)8月28日に得度して法眼となり、12月19日に大僧都に任ぜられる。元禄7年(1694年)2月に法印となり、元禄10年(1697年)9月30日に正僧正に転じる[4]

元禄13年(1700年)4月、一如が示寂し、第十七代法主を継承。元禄14年(1701年)6月16日に大僧正となる。

在職中、大谷祖廟の改築や、難波御堂(現、真宗大谷派 難波別院)や山科別院長福寺の再建を遂げ、また、学寮に講師職を設けるなどの功績を残す。

延享元年10月2日(1744年11月5日)、63歳にて示寂。

脚注 編集

  1. ^ a b 眞如…新字体が用いられる以前の文献に用いられた旧字体。
  2. ^ 正式には「本願寺」。一般には通称である「東本願寺」と呼称するので、「東本願寺第十七代法主」と表記。
  3. ^ 貞享元年12月30日は、グレゴリオ暦では年が明けて、1685年2月3日。
  4. ^ a b c 『佛教大辭彙』第二巻(冨山房、1916年)2883頁