真田 幸清(さなだ ゆききよ、寛政12年(1800年) - 明治4年(1871年))は、仙台藩伊達氏家臣。分家の真田信知の長男。子に真田幸歓。初め源太佐衛門信清、のち実名を幸清に改め、長七郎と称した。母は大和田氏。

寛政12年(1800年)7月、仙台真田家の分家主真田信知の長男として生まれる。文化6年(1809年)、仙台真田家宗家の真田信凭死去により10歳で宗家に養子に入り家督を継ぐ。文化14年(1817年)に林友通の娘喜曽(チョウ)と結婚。文政7年(1824年)4月1日に長男の喜平太(真田幸歓)が生まれる。同年12月、幸清は仙台藩牒役を任ぜられる。嘉永6年(1853年)病により家職を辞し嫡子の幸歓に継がせる。安政2年(1855年)幸清は田宅のある刈田郡矢附村に真田塾(私塾寺子屋)を開塾し、文久3年(1863年)まで庶民の子供に読み書きを教えた。 明治4年(1871年)9月、没す。享年72。成就院住空無相居士と号する。墓所は成覚寺。

明治5年(1872年)12月、真田塾の門弟達は刈田郡矢附村の川原畑に幸清の供養塔を建立し、師を偲んだ。

参考文献 編集

  • 仙台真田代々史