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矢田部保吉

矢田部 保吉(やたべ やすきち、1882年明治15年)4月1日[1] - 1958年(昭和33年)10月8日[1])は、日本外交官。駐シャム(タイ王国公使在任中タイ立憲革命を支援。第二次世界大戦時にはタイ人留学生受入れを進め日泰攻守同盟条約慶祝答礼使節団大使等を務めた。

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経歴編集

山口県出身。1907年(明治40年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した[2]。翌年、外交官補としてシャムに赴任[2]安東領事官補、ロンドン領事官補、蘇州領事官補、汕頭領事官補、シドニー領事官補、ボンベイ(現在のムンバイ領事廈門領事・台湾総督府事務官外務事務官・参事官イタリア大使館一等書記官、外務書記官在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官、青島総領事などを歴任[2]

1928年(昭和3年)、駐シャム特命全権公使に任命された[2]立憲革命を前後して1936年(昭和11年)まで公使を務め、プレーク・ピブーンソンクラームと面会し革命の親日派を支援。新生タイとの提携を進め、公使在任中に起こった満洲事変では政権への働きかけにより国際連盟総会でタイのみ棄権を行うこととなり各国代表を驚かせた[3][4]1937年(昭和12年)に神経痛のため退官した後は渋谷区神泉町で療養にあたる[5]

タイ人留学生受け入れ体制の整備等を行い、矢田部の働きかけなどで1935年昭和10年)に設立された国際学友会では、1940年(昭和15年)度から理事を、1941年(昭和16年)度から1944年(昭和19年)度までは専務理事を務め、1942年(昭和17年)1月には日・タイ両国学生交換協定を締結した[6][7]。日本タイ協会理事長等も歴任[8]。1942年(昭和17年)6月の日泰攻守同盟条約慶祝答礼の際には、訪タイ特命全権大使として派遣された[9]

家族編集

著書編集

  • 『シャム国革命政変の回顧』
  • 『Kanpathiwat lae Kanplianplaeng nai Prathet Sayam』

脚注編集

  1. ^ a b 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年、1009頁。
  2. ^ a b c d 人事興信録 1941.
  3. ^ 吉川利治「タイ国ピブーン政権と太平洋戦争」東南アジア研究 19(4), 363-387, 1982.3, 365[1]. 宮崎申郎「矢田部公使ノ対暹工作」外務省外交史料館 A-6-0-0-1_27_002 諸外国内政関係雑纂 暹羅国ノ部 第二巻, 1942.6.15, 5 (国立公文書館アジア歴資料センター B02031579300, Real No.A-0642_0391[2]
  4. ^ 「泰へ同盟慶祝答礼使節 特派大使、広田弘毅氏 補佐に矢田部全権大使 近く出発」『大阪毎日新聞』1942年6月21日付。神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」収録
  5. ^ 「泰へ同盟慶祝答礼使節 特派大使、広田弘毅氏 補佐に矢田部全権大使 近く出発」『大阪毎日新聞』1942年6月21日付。神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」収録
  6. ^ 河路由佳「国際学友会の成立と在日タイ人留学生」一橋大学機関リポジトリ
  7. ^ 河路由佳「鈴木忍とタイ」東京外国語大学
  8. ^ a b 人事興信録 1943.
  9. ^ 「泰へ同盟慶祝答礼使節 特派大使、広田弘毅氏 補佐に矢田部全権大使 近く出発」『大阪毎日新聞』1942年6月21日付。神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」収録

参考文献編集

  • 人事興信所編 『人事興信録 第13版(上)』 人事興信所、1941年。
  • 人事興信所編 『人事興信録 第14版(上)』 人事興信所、1943年。