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石尊権現(せきそんごんげん)は、大山山岳信仰修験道が融合した神仏習合の神であり、不動明王本地仏とする。神仏分離廃仏毀釈が行われる以前は、相模国雨降山大山寺から勧請されて全国の石尊社で祀られた。石尊大権現、大山石尊大権現ともいう。

概要編集

古代からの大山の山岳信仰に基づく延喜式神名帳式内社である阿夫利神社があったが、中世に神仏習合が盛んになると修験道に基づいて大山頂部の岩石を不動明王を本地とする石尊権現と信仰して石尊社となり、頂上本社の石尊権現以外にも、奥宮には大天狗、前社には小天狗も祀られ信仰された。現在の大山阿夫利神社の下社がある地には神宮寺(別当)の大山寺があった。神宮寺であった大山寺は天台宗真言宗が教勢を競ったが、最終的には真言宗大覚寺派に帰属した。また大山寺縁起絵巻や大山不動霊験記にも石尊権現の信仰が記された。

大山詣編集

江戸時代に大山は江ノ島と並んで江戸近郊の半ば観光地となって大山詣が盛んになり、関東一円で大山が組成されるとともに、源頼朝の戦勝祈願の故事に由来した納め太刀が流行した。当時の様子は江戸から石尊権現の神名を記した大きな木刀を担いで大山に参詣する浮世絵にもみられる。代表例として歌川豊国の「大當大願成就有が瀧壷」や歌川芳虎の「大山石尊大権現」などの作品がある。大山詣が盛んになるにつれ宿坊が建ち並び、大山詣を案内をする御師が活躍した。その規模は八大院、坊舎十八院、御師百五十余宇に至るほど隆盛した[1]。また、石尊権現信仰は関東周辺に広がり、各地で石尊山の名称や石尊宮の建立が興り、それらでも石尊講が組成されたり納め太刀が奉納された。大山講は相模・武蔵を中心に安房、下総、上総、常陸、下野、上野、磐城、甲斐、信濃、越後、遠江、駿河、伊豆に及んで、総講数1万5700、総檀家数約70万軒にも達した[2]。参詣者は「懺悔懺悔 六根清浄 大峰八大金剛童子 大山大聖不動明王 南無石尊大権現 大天狗小天狗 哀愍納受 一龍礼拝 帰命頂礼」などを唱えた。

神仏分離・廃仏毀釈編集

明治維新神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づく石尊権現は廃された。明治元年(1868年)頂上の石尊社ならびに大山寺は各々大山阿夫利神社の頂上本社(ならびに奥社・前社)と下社に改組された。多くの寺宝は破壊されたが、雨降山大山寺は現在の大山ケーブル大山寺駅近くに再興されて廃寺は免れた。また本地仏である不動明王像も廃仏毀釈から守られ現在も大山寺の本尊として祀られている。また各地の石尊社で廃仏毀釈を免れて石尊神社として残っているものもある。

脚注編集

  1. ^ 秋里籬嶋『東海道名所圖會』(寛政9年)
  2. ^ 大山開導記(明治初期)

関連項目編集