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石川康

日本のサッカー選手

石川 康(いしかわ こう、1970年3月10日 - )は、ボリビアサンタ・クルス県出身で、日本国籍の元サッカー選手。ポジションはDF(サイドバック、センターバック)。

石川 康 Football pictogram.svg
名前
愛称 Kamikaze(ボリビア時代)[1]
カタカナ イシカワ コウ
ラテン文字 ISHIKAWA Ko
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1970-03-10) 1970年3月10日(48歳)
出身地  ボリビア サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ
身長 170cm
体重 64kg
選手情報
ポジション DF
利き足
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

目次

プロフィール編集

幼少期からボリビアでの選手生活編集

1970年3月10日、ボリビアのオキナワ移住地に生まれる[2][注釈 1]。父親、母親ともに沖縄県からボリビアへの移民だった[3]。兄弟は4人で、その末っ子だった[3]。家は貧しく、電気と水道がなかったので、石川康は毎日ドラム缶を引っ張り、家から約8km先まで水汲みに出かけていくのが幼少の頃の日課だった[3]。また庭先で飼っていた鶏の卵を兄と共に街まで売りに行く仕事もやっていた[3]。石川康が7歳のときに、農地を売った金を元に母親が小さなスーパーマーケットを始め、生活が安定[3]。このとき、初めて家に電気と水道が引かれた[4][注釈 2]

ある夏休みに石川康は兄とサンタ・クルス・デ・ラ・シエラにあったサッカー選手養成学校、アカデミア・タウイチ・アギレラの練習に参加する[5]。兄のプレーはアカデミア・タウイチのコーチの目にとまり、熱心に入校を勧められたが、これを断っている[5]。石川康もアカデミアへ入ることを本人が強く希望し、親の説得を続けた。そして、10歳のときに入校をした[5][注釈 3]

この時のアカデミアのチームメイトに、マルコ・エチェベリエルウィン・サンチェスがいた。後に、この2人を含むアカデミア・タウイチのチームメンバー達は、ボリビア代表の主力メンバーとなり1994年FIFAワールドカップ本大会への出場をきめ、ワールドカップのフィールドに立った[注釈 4]

アカデミア・タウイチの主力メンバーとして1984年1985年ゴシアカップ連覇に貢献した[6]。中国で開催された1985年の第1回ワールド・ジュニア・ユース(U-16世界選手権)にアカデミア・タウイチのチームがそのままボリビア代表として出場[6]。中国、アメリカ、ギニアと比較的恵まれたグループリーグに入った[7]。石川康は3試合すべてに出場するも、チームは未勝利でグループステージ敗退であった[8][注釈 5]

また2年後のカナダで開催された1987年の第2回ワールド・ジュニア・ユースにもアカデミア・タウイチ・アギレラのチームが参加。一次リーグ敗退であったが、17歳だった石川は、この時も主力選手として3試合すべてに出場している[8]

日本での選手生活編集

第2回ワールド・ジュニア・ユース後に転機が訪れた。たまたまアカデミア・タウイチ・アギレラを訪れた日本人が、壁に貼ってあった石川のポスターを見て、知人を介して日本への留学を持ちかける[9]。すでにボリビアで高校を卒業していたが[10]、母親の強い勧めもあって[3]1988年埼玉県武南高校に3年生として編入した[10]日本語の読み書きもままならず、生活習慣への対応に苦慮しながら[9][11][注釈 6]、1年間の高校生生活を送り、サッカー部員として活躍。チームメイトの池田太川合孝治らと共に、1988年高校総体でベスト4。優勝候補として出場した高校選手権では切り札として期待され[12]、ベスト8進出に貢献した[注釈 7]

高校卒業後は当初ボリビアに戻りサッカーを続けることを考えていたが[11][13]、当時ホンダの監督であった宮本征勝の勧誘と、出稼ぎに日本にやってきていた父親の強引ともいえる後押しがあり[11][14]本田技研サッカー部に入部した。ただ最初は本田技研とプロ契約を結べず、社員として入社[13]。六畳一間の寮に暮らし[11]、午前中はオートバイの組み立て作業、午後に練習という生活だった[14]

本田技研での活躍により、1989年からはバルセロナ五輪代表(U-23日本代表)に選出され、1991年から1992年に行われたバルセロナ五輪予選ではリベロを務め中心選手として代表を牽引した[15][注釈 8]

また同年4月4日のスパルタク・モスクワ戦で日本代表デビューを飾っているが、この試合は国際Cマッチ扱いとなっており、Aマッチの出場経験はない。この後、オフトファルカン加茂周といった代表監督からも日本代表合宿への招集を受けているが、キャップ数を伸ばすには至らなかった[注釈 9]

一方で、1995年コパ・アメリカ1995へ出場するボリビア代表チームから招集の打診があったが、これを断っている[2]。この当時は、国際サッカー連盟(FIFA)の選手国籍変更規定が不明確で、U-15・U-17ボリビア代表で試合に出場した石川が日本代表の国際Aマッチに出場できるかは、はっきりとしていなかった。

1992年、日本で本格的なプロリーグが始まるのを見通して読売クラブ(当時)へ移籍[16][注釈 10]Jリーグ初期におけるヴェルディ川崎の不動の右サイドバックとして活躍し、数々のタイトル獲得に貢献した。1998年名古屋グランパスエイトにレンタル移籍[17]、翌1999年に完全移籍[18][19]2002年現役引退した。名古屋在籍時には一時、「康」から「巧」へと名前の漢字を変えている。

選手引退後編集

2003年、スポーツマネージメント業務を行う有限会社Globosport‐Asiaを設立。石川は本業のかたわら、コパ・リベルタドーレスなどの南米サッカーの試合を中継する日本のテレビ局で解説を務めた。

また、当初は通訳として、その後2005年にはテクニカルスタッフとして名古屋グランパスエイトと契約し、ネルシーニョ監督を支えた。

2006年7月、日本フットボールリーグ所属のFC琉球ゼネラルマネージャー(GM)に就任したが、2007年6月に退任。2008年、ビーチサッカーのレキオスFCの監督に就任した。

プレースタイル編集

読売クラブに移籍後、ぺぺ監督のときに「おまえサイドバックやれ」といわれ[15]、それ以後ヴェルディ川崎、名古屋グランパスでは、ほぼ右サイドバックとして出場していた。しかし、石川康自身は、子供の頃からもっともプライドを持ってやってきたポジションは、リベロだと述べている[20]

所属クラブ編集

個人成績編集

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1989-90 本田 24 JSL1部 14 0 0 0
1990-91 17 0 4 0
1991-92 19 0 4 0
1992 V川崎 - J - 8 0 5 0 13 0
1993 22 1 7 0 2 0 31 1
1994 40 1 3 0 2 0 45 1
1995 27 0 - 1 0 28 0
1996 19 0 16 0 1 0 36 0
1997 2 26 0 6 0 2 0 34 0
1998 名古屋 31 33 0 1 0 4 0 38 0
1999 J1 29 1 6 0 3 0 38 1
2000 27 1 6 0 2 0 31 1
2001 19 15 0 4 0 0 0 19 0
2002 1 0 0 0 0 0 1 0
通算 日本 J1 239 4 57 0 22 0 318 4
日本 JSL1部 50 0 8 0
総通算 289 4 65 0

その他の公式戦

国際試合

代表歴編集

脚注編集

注釈編集

  1. ^ オキナワ移住地には1区から3区まであるが、石川康の家はコロニア・オキナワ1区にあった[2]
  2. ^ 「家にテレビが入ったのは12〜13歳のころで、それまでは知人宅に行って金を払って見せてもらっていた」と回顧している[3]
  3. ^ 当初は、授業料を払っての参加だったが、すぐに才能を認められて授業料免除となった[5]
  4. ^ 週刊誌のインタビューに「正直言って『負けてしまえ!』と思いましたよ。見たくなかったです。あのワールドカップは」と語っている[2]
  5. ^ ボリビア国民はこの大会に大きな期待をしたが、その反動のため帰国後、石川の家にゴミが投げ入れられたり、投石があったりと、数カ月家からでられない状態が続いた[7]
  6. ^ 雑誌のインタビューに「ボリビアでは14歳の時から車を乗り回していたのに、こっちにきたらいきなりチャリンコ(自転車)」(原文ママ)と語っている[11]
  7. ^ 準々決勝で市立船橋に負けた後、監督やチームメイトが号泣する姿をみて石川は「ああ、日本人は自分の気持ちを表現するのが下手なんだ」と理解したと回顧している[11]
  8. ^ このとき石川康のバックアッパーは相馬直樹だった[15]
  9. ^ オフト監督から日本代表の春先のキャンプに都並敏史とともに呼ばれたとき、コンディションをまるっきり調整していなかったため、初日に「こいつには勝ったな」と都並に思われていた。これに対し、石川康はインタビューに対して、「ボリビアとの国籍問題でFIFAから出場停止の制裁を恐れ、『足が痛い』といった嘘をついて自分から代表の座を遠ざけていた」と語っている[2]
  10. ^ 本田技研がプロリーグ不参加を決めた時、当時チームメートだった北澤豪黒崎久志本田泰人と寮で膝を突き合わせて「俺たち、どうなるんだ?」と話あったという[11]

出典編集

  1. ^ 海外おきなわ最新情報 (1987, pp. 18)
  2. ^ a b c d e 石川康インタビュー(週刊文春'96.3.28号) (1996, pp. 82)
  3. ^ a b c d e f g サッカー移民 (2003, pp. 240)
  4. ^ 石川康インタビュー(週刊文春'96.3.28号) (1996, pp. 83)
  5. ^ a b c d サッカー移民 (2003, pp. 235)
  6. ^ a b サッカー移民 (2003, pp. 236)
  7. ^ a b サッカー移民 (2003, pp. 238)
  8. ^ a b 石川康 - FIFA主催大会成績
  9. ^ a b サッカー移民 (2003, pp. 239)
  10. ^ a b サッカー移民 (2003, pp. 241)
  11. ^ a b c d e f g 石川康インタビュー(週刊文春'96.3.28号) (1996, pp. 84)
  12. ^ “国際化の高校サッカー 武南にボリビア二世 仙台育英にブラジルから留学生”. 読売新聞東京朝刊 (東京): pp. 19. (1988年12月10日) 
  13. ^ a b サッカー移民 (2003, pp. 242)
  14. ^ a b サッカー移民 (2003, pp. 243)
  15. ^ a b c サッカー移民 (2003, pp. 244)
  16. ^ “サッカー読売クに日本代表候補の柱谷哲二、石川康が入団”. 読売新聞東京朝刊 (東京): pp. 19. (1992年5月26日) 
  17. ^ ““石川 康(いしかわ こう)選手” 新加入(期限付移籍)のお知らせ” (プレスリリース), 名古屋グランパスエイト, (1998年2月20日), オリジナル2002年12月16日時点によるアーカイブ。, http://web.archive.org/web/20021216134630fw_/http://www.nagoya-grampus-eight.co.jp:80/news/1998/feb/news2_6.html 2017年10月19日閲覧。 
  18. ^ ““石川 康(いしかわ こう)選手” 新加入(移籍)のお知らせ” (プレスリリース), 名古屋グランパスエイト, (1999年1月30日), オリジナル2002年12月16日時点によるアーカイブ。, http://web.archive.org/web/20021216133644fw_/http://www.nagoya-grampus-eight.co.jp:80/news/1999/jan/news1_13.html 2017年10月19日閲覧。 
  19. ^ “呂比須がグランパス契約”. 読売新聞東京朝刊 (東京): pp. 18. (1999年1月31日) 
  20. ^ サッカー移民 (2003, pp. 245)

参考文献編集

  • 加部究 『サッカー移民−王国から来た伝道師たち』 双葉社、2003年ISBN 978-457529602-0
  • “ボリビアの家には僕が6歳まで水道と電気がなかった 石川康”. 週刊文春 (文藝春秋社): 82-84. (1996年3月28日). 
  • 『海外おきなわ最新情報』 沖縄タイムス社、1987年NCID BN01872778

関連項目編集

外部リンク編集